テロ事件

3月11日、いつものように息子と二人で朝ご飯を食べながらのんきに「どらえもん」を見ていた時だ。いきなりテレビの画面が変わって緊急ニュースに切り替わった。

ちょうど15分ほど前、7時45分にアトーチャ駅で時限爆弾が爆発したらしい。
事件が起こったばかりなので報道陣も近づけないらしく、画面ははっきりしない。
見慣れた駅の外見が映り「やっぱりアトーチャ駅だ」とわかる。
私達は出かける寸前までテレビ画面に見入っていた。
はっきりわからないが、多数の重軽傷者がいるようだ。

出かけに管理人のアントニオに出会ったので「知ってる?アトーチャ駅の事故」というと「見たよ。なんて日なんだ!」という。
私達の家はマドリッドのちょうど中間になる。事件のあったアトーチャ駅は私の職場とはちょうど反対側だ。仕事に行こうといつものようにグランビア通りを歩いているとサイレンを鳴らした救急車両が何台も通り過ぎた。
なんとなく絵空事のような気持ちで会社に向かった。

会社に着いて、いつもどおりの仕事がはじまったが、一番若いヘルマンがいない。
「ヘルマンは?」と聞くと「今日はアトーチャに行っているよ。」とホセ・ミゲールが答えるのでびっくりした。よく聞くと、彼はけが人への輸血のために出かけたのだと言う。
その日、23歳のヘルマンは輸血のために待機して1リットル近い献血をしたそうだ。
「僕はO型だからどの人にも使えるんだ。運が良かったよ」と何事もなかったように答えていたのが印象的だった。

昼になると携帯に息子から電話が掛かってきた。
友人や日本から何本か電話があったらしい。いずれも安否を気遣うものだ。
昼休みに家でメールを送り、「私達は無事です」とお知らせした。

夜ご飯を食べながら息子が今日の事故のことを話し出した。
学校でも先生から事件のあらましを説明され、子供達の間でも話題になったらしい。それまで単なる爆発事件と考えていたものが、明らかに殺人を目的にしたものだと言う事がわかり、本当に気が滅入った。その時点では3月14日の総選挙に対する嫌がらせのためでは・・という見方が優勢のようで、どのスペイン人に聞いても「エタだと思う」と答えていた。

翌日になり死亡者はなんと200名となったそうだ。時間帯やルートからして一般のどちらかと言うと貧しい層が多く犠牲になった。外国人も多く、海外から移民してきて「ようやく仕事が見つかったばかりだったのに」と泣き崩れる家族の映像など、見ていて心の痛むものばかりだった。昼の12時は学校、職場、スペインのすべての場所で黙祷が捧げられた。仕事先に立ち寄ってくださった知人から「大使館では日本人の被害者はいないと発表したようだ」と言うことを聞いた。日本人がいなかったから良かったと言う気分になることは到底出来ない。

その日は寒くて雨の降る一日だったが、夜は大規模な「テロ反対」のデモと集会が開かれた。またその日の人々の挨拶はすべて「デモには行く?」と言うものだった。
仕事からの帰り、バスや地下鉄はデモに向かう人の波で大混雑し、地下鉄の出入り口からはひと息で湯気があがるほどだった。

夕方には店舗も閉まり、どの店にもスペインの旗に「喪中」をあらわす黒いリボンの徽章が飾られていた。息子も学校で胸にリボンをつけてもらって帰ってきた。息子のクラスでも自主的にテロ反対の絵を描く生徒達がたくさんいたそうだ。その絵を持ってデモに参加するためだ。これだけ多くの人たちが「テロに反対」しているのだ。
そして、当たり前のようにもくもくとデモに参加するのを見て、私は心から感動した。

その後、警察から現場近くで、アルカイダの犯行声明と思われるアラブ系の人間によるビデオテープが見つかったと発表された。翌日の新聞には大きく「アルカイダ」と言う文字が躍っていた。また、選挙ではテロの事件が響いたのか社会党が政権をとり、イラク戦争に積極的だった前首相アスナールは敗北した。
それだけイラク戦争には誰もが反対したと言う事だ。アルカイダの引き起こしたテロを見方につけて社会党が台頭したというも外国人の私から見れば皮肉に見える。

私達がスペインのマドリッドに住んでいると言う事で、森津先生を始め、多くの友人、知人からメールやご連絡をいただきました。どれもこれも私達の安否を心配してくださるものばかりです。本当にありがとうございました。そしてご心配をおかけしました。

事件から1週間がたった今でも町々の窓には喪に服すことをあらわした徽章が飾られています。
こういった心の痛むニュースが世界中からなくなることを心から祈っています。