歯医者




つい2ヶ月前のこと。息子と二人で買い物帰りにお茶をしていた。
お茶といっても、暑かったのでトニックウォーターと生ジュースだ。
息子は「お茶」といってもおやつの方に主眼があるから、サンドイッチやスナックをつまむ事になる。その日は、オニオンリングをつまみに(酒じゃないけど)「お茶」を楽しんでいた。サクサクのオニオンリングを口にいれるといきなり「ガリッ」という音がして口の中に何かが落ちた。なんだろうと思ってだしてみると、米粒くらいの歯のかけらだった。右下の奥歯の一部が欠けてしまったのだ。

いつかはこんな日が来ると思っていたが、それはあまりにも唐突だった。
やっぱりカルシウム剤を飲んでおけば良かった。この夏、気まぐれに2週間くらい飲み続けた事があったのだ。特別に意味があって飲み始めたわけではないが、こうなる予感があったのだろうか・・

小さな頃から私は歯医者が大嫌いだった。
母方の祖父が歯医者だったこともあって、母は私の歯にうるさかった。
甘いおやつの制限もきびしかったし、歯磨きにもうるさかった。それでもできる虫歯を治療するため、私は良く母に手をひかれて歯医者に通った。どの歯医者も私にとっては痛いし、怖いし、死んでも行きたくない場所だった。泣き叫んだり、先生の机に隠れたこともあったくらいだ。母はそんな私の監視のために、いつも一緒に治療室に入っては、じっと治療される私を見ていたが、門前の小僧なんとやらで「あそこは下手くそ、虫歯を余計大きくした」とか「ここはだめ、雑だ」などど言うおかげで、私は歯医者行脚をさせられた。歯医者にとってもいやな患者だったろうと思う。

祖父は私が生まれるずっと前に亡くなっていたし、だれも歯医者を継がなかったのだが、家の近所では祖父の知り合いの歯医者や大学の後輩が開業していた。
結局、私が通う事になったのは祖父の後輩で、相当なお年の先生だった。その頃でも珍しいような洋館風の自宅の一部屋を治療室にしていて、入れ歯から何から自分で加工していた。親切だし、丁寧なのだがマスクの中からよだれをすする音が始終するし、少々手が震えているのには閉口した。歯を治療するのも歯車をベルトで回す旧式な機械で、子供心に「大丈夫か」と心配になったものだ。

その後、大人になってからは、親知らずが生えたり、詰め物が取れてしまったりで、何度か歯医者さんに通ったが、そのときだけの付き合いで、メインの治療が済めば勝手に「終わり」と判断して通うのを中止してしまった。
社会人になってからは、偶然、職場の近くに最高にいい歯医者さんを見つけて、何かあればそこに通っていた。御茶ノ水にある波岡歯科だ。息子もそこに通っていたし、亡くなった夫も気に入っていた。何より親切で、痛くない、子供に対しても「歯医者を嫌いになられたら困るよ」といって無理なことは極力しない。私と同じ歯医者嫌いな息子も「波岡先生のとこ以外はいや」だそうだ。

長々書いたが、そんな私がスペインで歯医者に通わなくてはならないとは・・
スペインに移住するとき、心配な事はいくつもあったが、歯医者のことはその中でもかなり大きな位置をしめていた。聞くところによると、スペインの歯医者は日本に比べると一般的に技術がないし、主な治療は抜歯だという。昔からスペインに住んでいる日本人の方々もいいことはまったく言わない。日本と違って、社会保険も抜歯以外はきかないそうだ。スペインで知り合った歯医者の友人(日本人で日本で開業している)も『日本に比べたら乱暴な治療だし、だいたい細かい治療が苦手そうだよね』という。

私は年に一度くらいは帰国して、波岡先生に診てもらおう。と、考えていたが、実際問題として働いて生活をしているとなかなかそうもいかない。急な場合にすぐ日本に帰れないし、長期のバカンスがとれても息子とは合わない場合が多かった。経済的問題もある。基本的にはスペインで何とかできる方法を探さなくてはならない。

マドリッドには日本人の歯医者さんが2人ほどいるそうだが、日本で免許を取った人ではないらしい。そのうちの一人に治療してもらった事がある友達に聞いてみたが、確かに丁寧だし、言葉が通じるのはありがたかったけど、日本と違って全部を一人で直すのではなくて「はい、ここまでです。この後はスペイン人の歯医者を紹介しましょうか?それとも日本に帰る予定があれば、この続きは日本でしますか?」と言われたそうだ。もちろん保険が利かないから費用は歯一本で500ユーロほどかかり、日本に帰国したおりに、続きの治療をしたそうだ。私は今のところ、すぐに日本に帰る予定はないし、500ユーロも大金なので、スペインでの普通の治療を考えなくてはならない。
それでも「スペインの歯医者に行って、いきなり歯を抜かれたらどうしよう。もう生えてこないし、だいたい口をあけたままだから何をされてもわからないし・・」
そう思うと恐怖がこみ上げてきて、大きなヤットコで歯を抜かれそうになる夢までみてしまった。日本人の歯医者さんに行こうかとも思ったのだが、決心がつかないうちに、欠けた歯の詰め物がどんどん削れて穴が開いてしまった。当然、食べ物のかすは詰まるし、水が凍みるように感じられてきた。そうすると歯があちこち抜けたおばあさんになったような気がして、ますます気が滅入っていった。

仕方がないから、なるたけ柔らかいもの食べ、丁寧に歯を磨いて過ごしていたが、ある日「みや、もし歯が悪くなったら僕の親戚にとってもいい歯医者がいるからね」と、職場で言われた。「えー、実は行かなくちゃいけないの」というと、彼はすぐに電話をして予約をしてくれた。簡単にことが運んだが、いざとなると心配で、心配で、気が気ではなかった。スペインはスペインだから、いきなりヤットコで歯を抜かれるかもしれなかったからだ。紹介してくれたホセ・ミゲールは以前からの知り合いだが、とても温厚で親切だし、スペイン人にしては大げさなところがない人なので、ともかく行ってみる事にした。

予約日におそるおそる医院を訪ねてみると、2、3人の患者が待っていた。
日本の歯医者と同じような感じで、違和感はない。入っていくとホセ・ミゲールの紹介が行き届いていたらしく、受付のお姉さんが「みや、よくきたわね」と出迎えてくれた。
診察室に入ると、くしゃくしゃの茶色い髪にブルーの小さな瞳のカルロスが待っていた。私があせりながら『右下の奥歯が欠けた』というと先生は、ふん、ふん、といいながら丁寧に診てくれた。「あー、ここが欠けてるね。薬のアレルギーはある?何か大病をしたことは?飲みつづけている薬は?妊娠はしていないよね」と手際よく質問しながら欠けた歯のレントゲンもとってくれた。使っている器具は日本と同じようだし、新しい。大きなヤットコも見当たらなかった。

とりあえずの診察が終わると、私にもわかるようにカルロスは説明しだした。簡単にいえば、まだ神経があるから神経を殺して詰めなおす治療をする、ということだ。となりの歯も同じように治療されているけれど、少なくてもあと2、3年は大丈夫だろうということだ。ここまで説明するとカルロスは「治療費の事を受付で聞いて治療するかどうか決めてね」と言って終わった。

どうなることか心臓がばくばくしていた私は、診療室を出てやっと安心した。
受付では「治療3回に分けて行う。費用は240ユーロ」と紙に書いてくれた。
私はその場で次の予約をして帰った。もう仕方がない、治療するしかないと腹を括ったのだ。
初めての治療はその1週間後、仕事が終わってから出かけた。
出かけにホセ・ミゲールは「ギギギー」と歯を削る真似をして送ってくれた。
診療室に入るとさっそく治療がはじまった。

「今日の体調はどう?何か薬は飲んでいる?」「いいえ」と答えると、「じゃ、OK。麻酔をかけるよ」と言って口の中にスプレーをした。「どう?あんまり感じなくなった?」
うなずくと今度は麻酔の注射をした、と思う。というのは、私は歯の治療をする時は、いつも目をつぶっている。治療器具を見るだけで恐怖を感じ、痛くなってくるからだ。
カルロスは「どう?感じる?この辺はどう?」と言って顔の右側や歯茎などに触れた。
私は我慢するのは絶対にいやだったので「まだ、感じる」と言って完全に麻酔が効くのを待った。カルロスは笑いながらも何回か確かめて、ようやく治療を始めた。

新しくレントゲンを撮り、様子を見ながら残った詰め物を取り除いていたカルロスはしきりに「しっかりしてるな。とても頑丈だよ」と言っていた。
私は歯を削る音を聞くだけで、どきどきしてろくにうなずく事もできない。緊張のため、手をぎゅっと握っているのを見て、カルロスは「だいじょうぶ?」と何回も声をかけてくれる。途中、口をゆすいだりして休憩が入ったが、30分もするとカルロスは手を止めて「ちょっと、聞いて。」と言い出した。彼が言うには「この歯の治療はとても良くできている。今のところやり直す必要はないと思うけど、どうする?」というのだ。
さすが波岡先生の治してくれた歯だ。

結局は、欠けてしまった所も含めて詰め直してもらうだけにした。
詰めた部分を鏡で見ると、ただ詰めただけという感じで、多分一番普通の詰め物だったのだろう、美的感覚には少々欠けている。
最後に「もし痛んだり問題があったら、いつでも来て。何もなかったら、次は3ヵ月後のクリスマスの頃にもう一度確認してみよう」といって治療は終わってしまった。

いざ終わってしまうと、あっけなかった。費用も25ユーロだけですんだ。
その夜は麻酔が効いたままで、顔の右半分に何も感じないまま寝た。
その後、1週間が過ぎたが今のところ、特に問題はないようだ。
とりあえず、めでたし。めでたし。