ひのき舞台ものぐさつづり帖 その7

コミック
お能を題材にとったコミック(マンガ)は結構たくさんあるって、ご存知でしたか?

たとえば、「悪魔の花嫁」(あしべゆうほ画)には、あちこちに能の話が出てきます。
私は、一巻だったかに出てくる面打ちの話が好きです。
他には、「のがみけい」さんが描かれた「さくら詩」「花しるべ」というマンガも好きです。
これらの本は、私がお能を習い始める前に好きで買ったものです。

のがみけいさんのコミックは手に入りにくいですが、最近のもので、手に入りやすい「お能を扱ったコミック」には、
「白蓮の寺」(花村えい子)
「白木蓮抄(マグノリアしょう)」(花郁悠紀子)
「風姿花デンツァ」(飯田晴子)
「NATURAL」(成田美奈子)(主に出てくるのは、11巻ね)
などがあります。
つい最近では、成田さんの新刊「花よりも花のごとく」も発売されました。

この「花よりも・・・」に出てくる「葵上」「国栖」は、師匠の舞台で見たばかりだったので、感激!
しかも、「葵上」にまつわる話では、「六条御息所にカウンセリングをしたら」って話題が出ていたので、
「おおっ!私と同じ感覚の人がいるっ!」
と嬉しくなりました。

だいたい、「葵上」の話は、カウンセリングを職業としている私としては、納得しかねる話なんですよね。
だって、生霊になるくらいの女の嫉妬が、坊さんが調伏したくらいで、消えるとは思えないもん!
女の切羽詰った嫉妬って、ほんとに怖い!でも、それゆえに悲しくってかわいい。

もし、私が六条さんの幽霊に出会ったら、じっくり話を聞いてあげて、慰めてあげたいものです。

「そっかー、鬼になっちゃうくらいに光君が好きだったんだー。
ほんとに愛してたんだねー。
なのに、気持ちが伝わらなくて、つらかったよねー。
うーん、よしよし・・・・。生霊になっちゃうくらい、耐えてたんだー。えらかったねー。
 そんなに光ちゃんのことを思ってるんだったら、物分りのいいことを言ってないで、一度くらいは、ドーンと、心のままにぶつかってみなよー。
光君は、女ったらしだけど、情があるから、
「たまには、私のことも思い出してくださいね・・(うるうる・・・)」
って、理知的なあなたが心のままに泣いたら、イチコロだと思うよー。
応援してるよー、ファイトー、がんばれー!!!」
 とか言って、応援しそう・・。
そしたら、調伏するより、よっぽど、成仏すると思うんだけどねー。

ついでに、「たたられるタイプの人」って、共通点があるようにも思います。
「感性が鋭い人」「自責の念が強い人」って感じでしょうか。
「末摘花」とか「花散里」って、たたられない気がします。
たたられない人に共通するのは、「すごく鈍い性格」あるいは、「自信に満ち溢れているか、しっかりした自分像を持っていて、揺らがない人」って感じでしょうか。

・ ・・という話を友人にしたら、
「たたられない人は、六条さんが髪の毛を引っ張っても、
「あれー、頭がかゆいなー。今度のシャンプー、合わなかったかなー」
くらいにしか思わないよねー」
というもんだから、大笑いしてしまいました。

でも、まあ、何はともあれ、先日の師匠の「葵上」の「六条ちゃん」はすっごく悲しげて、可哀想で、めちゃくちゃかわいかったです。
 医学的な目で見ると、あんなかわいい性格の女性は、生霊にならずに、ガンにかかって、はかなく死にそうな気がしないでもないけど・・・。でも、男の人の描く女性像って、本当にかわいくってきれいで、物語性がありますねー。

ところで、実は今回の「葵上」の舞台は、満員御礼で、早めに行った割にはいい席が取れませんでした。
シテ柱に隠れて、前半はほとんど見えなくて、「これじゃ、全然見えないよー!!!」とフテ腐れてたんですが・・。
途中で、ハッと我に返り、
「いかん、いかん。心の中で、こうやって文句ばかり言ってたら、舞台を見そこねてしまうわ」
と、柱の向こうのシテを心眼で見ようと、決意!

そしたら、ほんのちょっと見えているシテの背中や、手を見ただけで、次にシテがどう動くのか、どういう心持なのか、姿が見えているときよりも、手にとるようにわかりました。
 「そうかー、見ようと思えば、空気を感じるだけでも舞台は見えるんだ!」
なんて、すごく感激してたんですが、柱の影からシテが出てきた途端に、衣装や面が気になって、「心」が見えにくくなってしまいました。

「ああ、人間は、華やかなものに惑わされて、本質的なものが見えなくなる生き物なんだなー」と、しみじみ思いました。

私たちは普段の生活の中でも、実は、姿形や地位や名誉といった、形になって目に見えるものせいで、ずいぶん目をくらまされて、本当に見なきゃいけない大事なものを見失っていることがあるかもしれないなー、と思った一時でした。


お能の不思議
お能っていうのは不思議な芸能だ。

とっても単純な動きなのに、何もない舞台の上に、いろいろな不思議な世界が見えてきたりするから・・・。

 暗い道、鮎、飛んでいく鳥、満開の桜、満月・・・etc

 舞台に物がないときほど、いろいろなものが見えてくる。
 そう考えると、何もない「空」という状態が、実は全てを持っているんだなーと、しみじみ感じさせられる。
 
ちなみに、贔屓しているわけではないが、うちの師匠の稽古や舞台は、中でもなかなかに面白い。結構な確率で、相当不思議なことが起こるからだ。

先日の「玄象」という舞台も、相当不思議な舞台だった。
シテ(主人公)が琵琶の音を聞いているシーンで、謡の声は聞こえているのに、全く音が聞こえないシーンとした状態に感じられたのだ。
そして、そのシーンとした空間に、琵琶の音と、雨の音と、波の音が、「響いている」というより、「見える」ように感じられた。
なんとも不思議な感覚だった。

あんな不思議な感覚を味わえるのは、一生に一度かもしれない。お金では買えない貴重な経験ができて、本当にラッキーだった。


ちなみに、ちっちゃい不思議な体験は、ざらざら起こる。
ちょっと前の「猩々」の謡をお稽古も、不思議だった。
家で一人で練習していたときは、
「なんか、この曲、好きじゃない!何回練習しても覚えられないし・・・。やだなー」
と乗り気じゃなかったのだけど・・・。

お稽古を受けてみたら、あら不思議!

「酒を飲んで酔っ払った猩々が、海の上で、不思議な舞をルンルン待っている姿」
が、いきなりポンと頭の中に落ちてきたのだ!
「きゃあ!なんだか、めっちゃ、面白い!」
とすっかり楽しい気分になってきた。(でも、下手くそな私は、すぐ謡えなくなってつまっちゃったんだけど・・・)

さらに、ビックリしたのは、そのときの妙な「猩々の舞」。
「なんで、あんな変てこな舞が頭の中に浮かんだんだろう」
と不思議に思っていたのだけれど、その数日後、たまたま、「猩々乱」の舞囃子をみて、
「あーーーーー!!!!」
と、愕然とした!
なんと、なんと、私の頭に落ちてきた「猩々の舞」と酷似していたのだ!

ちなみに、私は今まで、「猩々乱」なんて舞は、今まで一回も見たことがない!

いやー、世の中には不思議なことがあるもんだ。

これだから、お能はやめられない。
発表会
昨日はお能の発表会でした。

素人の発表会は、玄人の舞台とはまた違った楽しみがあります。たとえて言えば、高校野球とプロ野球のような違い。技術はそんなに高くなくても、一生懸命な心意気を見ているだけで、すごく爽やかな気分になる・・・という感じです。

ところで、今回の私の目標は「普段のまま、がんばらない。あれこれ考えず、心に浮かんだまま舞う」でした。目標はまずまず達成できたのですが、何も考えてなかったので、大きな「ポカ(失敗)」をやってしまいました(笑)。でもまあ、素人目には、わからない失敗だったので、いいことにしよーって感じです。


それに、何も考えなかった割には、「悲しい気分」「そよぐ秋風」「鹿や虫」など、自然に心に浮かんできたので、「少しは、普段の講演会のモードに近づいてきたかな?」と、嬉しかったです。


反面、結構、大変だったのが、師匠以外の人と合わせること。囃子、地謡の呼吸や「気」が人によって微妙に違うので、どう合わせていいのか、ちょっと戸惑ってしまいました。普段、いかに、師匠の呼吸に助けられていたのかをしみじみ実感!でもまあ、なんだかんだ言っても、結局、自分のペースで舞ってしまったんですけど・・・。


ついでに、前回初めて舞囃子を舞わせてもらったときは、笛の先生が、ものすごく気を使って、ものすごく合わせてくださってたんだなーということに、いまさらのように気がつきました。


ちなみに、舞っているときというのは、周囲の気をとても読みやすい状態になるようです。なので、バックにものすごく強くていい気を持っている人がいると、とても舞いやすいものです。


フラメンコのときなどは、いいタイミングで、止まったり、回ったりできると、ハレオという掛け声を先生がかけてくださるのですが、ああいうのは、すごくノリノリになりやすいのでとても楽しいものです。鼓の掛け声は、フラメンコのハレオにすごく似ている気がしますね。


見にきてくれた友人達の感想は、

「ちゃんと、「女」に見えたよ。でも、大人の女の色気はないよね。やっぱ、少女って感じ。でも、とってもかわいそうな女の子の話なんだーって、ちゃんとわかったよ」
だそうです。

よかったよかった。やっと、私も少しは女らしくなれたかな?


でも、次は、絶対、狐か、天狗か、神様か、強い舞にしようと思っている私です。
鑑賞マナーと「老い」について
金曜、土曜と、お能を見に行ったのだけど・・・。

土曜日の観客のマナーが非常に悪かった。 学校関係の鑑賞会を兼ねていたのか、小学生や就学前の児童がたくさんきていた。そのこと自体は、日本の伝統芸能の普及のためにはとてもいいことだとは思うけれど・・・。


演能中、ずっとおしゃべりをしていたり、ごそごそ動いているのには参った。

しかも、引率の先生や父兄まで、ぺちゃくちゃしゃべっている!

場内がざわついているせいか、他の観客も、演能中に平気で、出たり入ったりするので、ますます、落ち着かない雰囲気になっていた。

あれでは、演者がかわいそう・・・。

観客席にいると、ついつい、
「これだけ大勢人がいるのだから、私一人くらい、出入りしてもわかるまい。私一人、ちょっとおしゃべりしていてもわかるまい」
と思うのかもしれない。でも、壇上にたつと、誰がおしゃべりしていて、どの人が居眠りしているのかは、一目瞭然だ。

特に、会場が明るくてよく見渡せるときには、私などは、

「この人は、このくらい話に集中している。あの人は、話が理解できてないみたいだ。この人は、同じような経験をしたことがあるんだなー。あの人は、多分医療関係者だろう。この人は、かなり、職場で活躍している人に違いない」
ということまで、相当読めてしまう。

そのため、観客の集中度が悪いと、私の場合、講演の集中度が相当落ちる。特に、学校行事などの強制参加型の講演会の観客は、とても態度が悪いことが多い。無理矢理、聞かされている人は確かに、とても退屈なのだろうと思うが、その退屈の「気」を受ける講演者も、相当余分にエネルギーを消耗することになる。そうなると、お互いに不幸なので、強制参加型の講演会は、なるべくお断わりすることにしている。

 
講演会と舞台では、微妙に違うかもしれないが、それでも、観客の良し悪しは、必ず舞台に反映するものだと思う。いい舞台を見たかったら、観客一人一人が、努力する必要がある。 特に、次代を担う子供達を引率する大人が、自ら、マナーが悪いのは、将来が危ぶまれる。

ところで、先日、舞台を見ていて、役者にとっての「老い」について、かなり考えさせられた。
どんなに才能あふれる素晴らしい役者にも等しく「老い」はやってくる。
人は、ある時点までは、努力したら、努力したなりに、どんどん才能が開花して伸びていくが、やがて頂点を極めたあとに「老い」がやってくる。老いてなお、現役として、舞台に立ちつづけるのは、とても残酷な修行だと思った。

脂の乗り切った若手の活躍する舞台を陰で支えるたびに、

「昔は、私もああいう軽やかな動きが、やすやすとできたのに・・・。こんな風に動ける日々は、私には二度とこない。そればかりか、日を重ねるにつれ、どんどん動けなくなるのだ」
と、今までできていたことができなくなる「老いていく自分」と、向き合わざるを得なくなる。その絶望的な悲しみは、加速度的に老いていく体になったときにしか、十分には理解しがたいことだろう。

しかも、「現役」でいながら、「老い」と向き合わざるを得ないのは、年をとって「病気」にかかって「老い」と向き合うより、ずっとずっと、大変なことじゃないかと思う。

なぜなら、「病気」で動けなくなった年配者は、自分が動けなくなったことを「年」のせいだけではなく、「病気」のせいにもすることができるからだ。

「年」せいで動けない・・・ということは、若者にはなかなか理解できないことが多い。若者は、

「なるべく、弱らないように、筋力を鍛えれば、年をとるのをある程度、防げるのではないだろうか。年をとって弱るのは、努力が足りないからじゃないか」
と思いやすいからだ。

でも、「年をとる」ということは、努力して防ぐ云々の問題じゃない。単なる自然の成り行きだ。そのことを、年を老いた人は肌身で理解していくが、若い人には、どうにも理解しがたいようだ。


だから、老いて行く人たちは、自分の気持ちが理解してもらえず、どんどん、孤独感にさいなまれ、それでも、老いた体で生きていかねばならない試練と闘うことになる。

でも、そこに「病気」が加わると、若い人の中にも、「病気なら、仕方ないね」と理解を示す人も出てくるようになる。

だから、病気というわかりやすい状況を持たずに、現役で「老い」と向き合わなければならないことは、本当に大変なことだろうと思う。


ある能役者の本だったかなにかで、
「老女曲は、ただ立っているだけだが、ただ立っている演目ほど、体力がいるものはない。年をとると、立っていることができなくなる。だから、いい舞ができなくなる。そのため、できることなら、若いときに、老女曲にチャレンジできるといい。でも、若いときには、老女の心が演じられないから、本物にはならない。だから、舞も心も完全な老女の舞台を演じるのは、難しいものだ」
という話を聞いたことがある。

役者から見たら、確かにその通りなのかもしれないが、私のように、本当に老いて死んでいく人を何千人も診ている人間からみれば、

「いい舞を目指すのは、心が若い証拠」
と思ってしまう。

「今までは、簡単に一足が出せたのに、たった一足を出すこともままならない。今までは、しゃっきり立っていることができたのに、立っていることもままならない。

だから、仕方なく、無様な姿であっても、立っているしかできないから、ただ立っている」
という状態になってはじめて、本当の老人の心が理解できるようになるような気がしてならない。

ある年老いた患者さんが、
「年老いた者の最後の勤めは、「年をとるということがどういうことか」ということを若者達に伝えていくこと。

年をとるということの、惨めさ、弱さを包み隠さず、さらけだして生き抜いて死んでいくことで、若者達が年をとって、私と同じ立場に立たされたときに、

「ああそうか、みんな、この道をたどって死んでいったんだな。惨めで、弱い生き物になっていくことは、悲しいけれど、自然なことなんだな」
と、自分のことを思い出してもらえればいい」
といっていた。
 
世阿弥も、そんな思いで、あえて、自分の弱さ、惨めさをさらすことで、世の人たちに「老いる」ことを伝えようとしたのだろうか?


班女
今年のお能の会では、「班女」の舞囃子をやることにした。

昨年、一昨年と「動きは楽しいけれど、感情移入しにくい曲目(敦盛、東北(和泉式部))」を選んで、

「あー、毎日、性に合わない人物のことを考えて、練習するのは疲れる・・・」
と思ったので、今回は「半年やっていても、飽きなくて好きな人物像」を選ぶことにした。

「班女」は、別れた恋人にもらった扇を日長毎日見つめながら、
「神様、どうか、大好きな彼に早く会わせてくださいね」
と、お祈りしているけなげな女の子の話だ。
お能では、他にも、けなげに別れた恋人や夫のことを思う女性を題材にした曲が多い。その中でも、「班女」は、「静御前」の次くらいに好きだ。

反対に、あまり好きではないのは、「砧」。
出張に出て3年間、一度も帰らない夫を思って恨むあまり、病死してしまう話だ。その愛情の深さは評価するけれど、そのくらい愛しているんだったら、
「会えないと、すっごく寂しいの・・・。ねえ、会いにいってもいい?」
とかなんとか、素直に言って、都にいる夫のところまで会いにいけばいいのに・・・と思ってしまう。素直にそういえずに、砧なんか叩いて、恨みがましいことばかり言っているから捨てられたんじゃないの?・・・とか、ついつい考えてしまう・・・。

でも、この間、T先生が演じた「砧」の妻は、超かわいかった。
「夫を素直に慕うあまり、死んじゃったのー。「会いにいっていい?」なんて、いいだすことなんか考えつかないくらい、寂しかったのー!」
って感じ。あまりのかわいさに、思わず、
「うーん、宝塚の男役のような男性がこの世に存在しないように、男性が演じるかわいい女っていうのも、この世にはなかなか存在しないかもねー」
と、思ってしまった。

話は戻るが、他に夫を慕っている話で、あまり好きではないのが「楊貴妃」のお能。
何百年も玄宗皇帝のことだけを思って、蓬莱宮で過ごしているのは、偉いと思うけど、一度は生まれ変わって、玄宗皇帝に会う事ができたんだから、努力すれば、もう一回生まれ変わって、再び会うことだって、できるだろうが! 嘆いている暇があったら、
「どうやったら、愛しい玄宗皇帝さまにもう一度会うことができるだろうか?」
って、真剣に考えて、努力しろ!比翼連理の誓いは嘘だったのかい?
・・・とついつい言いたくなる・・・。

どうやら私は、彼や夫に会えなくても陰で一生懸命努力している女性が好きらしい。
だから、織姫さんなんかは、大好きだ。彦星さんに会えない間、きっと、彦星さんに注ぎたい分の愛情を全部注いで、織物を作っているに違いないと思うから・・・。(でも、もしかして、会えない間の単なる暇つぶしか、寂しさを紛らわせるための常套手段だったりして?!)
静御前も職業人だから、きっと、義経に会えない間、泣き暮らしていないで、
「この目の前にいる人を義経様だと思うことにしよう。義経さまをお慰めするのと同じように、この人たちに、一時の安らぎを与えられるように舞おう」
と、仕事にいそしんでいたんじゃないかと、勝手に私は思っている。なので、静御前は大好きだ。

そして、「班女」は・・・。まあ、静御前、織姫さま・・・のように、建設的な(?)過ごし方をしているわけじゃないけれど、一生懸命、毎日神仏に祈っている姿がとってもかわいくって好きだ。


「班女」を練習演目に選んだお陰で、今年はお稽古をするのが、とっても楽しい。
でもでも、仕事が忙しくて、お稽古をする暇がない・・・。
ああ、世の中、うまくいかないもんだ・・・。

天女になるのは難しい

今、謡のお稽古で、「羽衣」を練習している。あまり、お能は詳しくない人のために解説しておくと、このお話は「羽衣をなくして天に帰れなくなった天人が、羽衣を返してもらって、舞を舞いながら天に帰っていく」という、有名なお話だ。

しばらく、お稽古に間があいたので、何度も市販のテープを聞いて、自分なりには練習してお稽古に臨んだつもりだったけれども、先生のお手本を聞いて、愕然とした。

「あー、あれも、これもできてない…。ううーーん、詰めが甘かった・・・」

まあ、初心者なんだから、当たり前といえば、当たり前なんだけれども、あまりの自分の下手さに、ガックリした。
と同時に、テープだとわからないけれど、生で一度聞くとわかることって、いっぱいあるんだな―としみじみ思った。でも、わかっても、なかなか直せないんだよね。これが・・・。

ところで、この日のお稽古で、なにより、一番愕然として、考えさせられたのが、先生が表現された「羽衣の天界の世界」。

先生の謡を聞いていると、まるで、太陽の光を受けたシャボン玉のような、ピンク色に近い淡い虹色をしたふわふわの天人の衣で全体が包まれている天上界のイメージが浮かんできた。


それに比べて、私の想像していた天人の世界ときたら・・・、

「どこまでも高く広く続く青い空―。さんさんと降りそそぐ金色の光―」
って感じで、羽衣の世界っていうよりは、ギリシャ神話に近いイメージ。
ついでに、先生の天人が「ふわふわの羽衣をまとった今にも雲にまぎれてしまいそうな天女」だったら、私の天人はどう聞いても、「ゼウスを尻に敷いている女神のヘラ」って感じ・・・。私だって、か弱い、かわいい天人を目指して練習してたはずなのに…。
我ながら、「なんて、私って、男っぽくて潔いのかしら・・・」と、痛感してガックリ・・・。
はあ…やれやれ。

謡で、あのやわらかさが表現できるようになるには、まだまだ、まだまだ、鍛錬が必要だ・・・・・・。


でも、カウンセリングの時に、先生が表現していらした「天の世界」のイメージは使えそうな気がする。患者さんの性格に合わせて、治療の時に、

「この人には、「羽衣の天の世界」、こっちの人には「ギリシャ神話の天の世界」を感じてもらおう」
と、上手くこちらが発する「気」を使い分けて、カウンセリングすれば、効果も倍増するに違いない。謡ではできなくても、カウンセリングでは、簡単にできそうだ。
やっぱ、趣味で得たことは、どんどん本業に生かさなくっちゃね。