ひのき舞台ものぐさつづり帖 その6

狂言
9月7日はお能を見に行った。

この間の「歌仙会」の話にも出てきたS先生の「巴」がとてもよかった。思わず泣いてしまった。でも、歌仙会のときの「巴」とは、また、ぜんぜん違った雰囲気だったので、感動の仕方も微妙に違った。地頭(コーラスのまとめ役)、シテ(主役)が、誰になるかによっても、伝わってくる雰囲気は、随分変わってくるのだなーと、しみじみ実感。

ところで、なんといってもこの日の一番のヒットは、狂言のJ.Z氏。

この人の表現力は、ほんとにすごい!! 以前から、すごくやわらかくて、人情味溢れる、優しくて、豊かな表現をなさる方だなーと思っていましたが・・・。この日は、本当に思いっきり笑わせていただいて、思いっきり、泣かせていただきました。

狂言は、「焼栗」という出し物だったのですが、栗の焼けている様子や、栗の味まで客席に伝わってきそうな・・・ともかく、見ている者が幸せな気持ちで一杯になる舞台でした。

 そして、「藤戸」の間狂言が、これまた、すごかった・・・。

子供を殺された母が、子供を殺した武将に恨みつらみを述べて、泣き崩れる。この母を無理矢理立たせて、家まで送りつける御家人・・・というのが間狂言の役どころなのですが・・・。御家人は、母を送り届ける道すがら、独り言のように、慰めの言葉をつぶやくのだ。

 「あなたの話を聞いていて、私のような者でさえ、涙を誘いました。若い子供が、親より先に行くというのは、順番も違います。親としては、どんなに悲しいことか、お察しします。あなたが、子供を殺した相手に恨みを抱くのはもっともだと思います。

でも、恨んでも、亡くなったお子さんは帰ってきません。辛いかもしれませんが、せめて、十分な弔いをして、お子さんの霊を慰めて、あなた自身は、しっかり強く生きないさいね」

 というようなことを、母に話し掛けるのだ。

こういう会話って、病院では、日常茶飯事だ。でも、たいがい、こういうセリフを病院スタッフがいうと、言われたご遺族は、

「私の悲しみを、わかってないから、そんなことがいえるのよ!!!」
って、食って掛かられて、グウの音も出ないっていうのが普通なのだが・・・・。

あの、間狂言のJ.Z氏のように言われたら、

「ああ、この人は、本当に私の気持ちがわかってくれている。その上で、私のことを心配してくれているんだ」
って、しみじみ感じられて、心が癒されるだろうなー、と思った。

よく、介護の教科書には、

「病気の人や、ご家族に言ってはいけない言葉」
なんてものが、いろいろ書かれているけれど・・・・。でも、本当に、その人のことを心の底から心配して掛けた言葉は、たとえ、どんな不器用な言葉であっても、相手の人が、心を閉ざしてさえいなければ、伝わるんじゃないかなー、としみじみ思った。

私は、J.Z氏のことはよく知らないけれど、舞台を見る限りでは、あの人は、「生きる」ということの本質が、実感としてわかっている人のように感じる。医者として見ると、病気にかかったとしても、絶対幸せに大往生できるタイプの人、って感じだ。


歌仙会
昨日は、9時から17時過ぎまで、ぶっ通しで36曲を謡うという「歌仙会」なるものに参加してきました。まだまだ、私は謡える曲が少ないので、先輩の謡を感心しながら聞くだけって感じだったのですが、いろいろ勉強になることが多かったです。

普段のスピードより、ずっと早く謡うのですが、それでも、ちゃんと曲の意味や情景はかなり伝わってくるもので、「巴」なんて、ボロボロ泣いてしまいました。

謡っていて面白かったのは、修羅物ですね。戦いの臨場感が速い分、濃縮して伝わってくるようで、楽しかったです。

あと、先生方の近くに座ると、「気」がびんびん伝わってくるので、
 「ああ、この先生は、こんな心象風景を持っているのかー」
とか、感じながら謡えて、とても興味深かったです。

そして、この日の何よりの収穫は、重鎮のS先生のお話が聞けたこと。

「さすが、一芸に秀でている人は、「気」が違う!」
と思って、感動してしまいました。ホスピス医的な見方をすれば、大往生をするような「円熟した強さと丸みのある気」って感じでした。いろいろないいお話を聞かせていただいたのですが、一番いい話だなあと思ったのは、

「円を書くのに一番大切なことは、円を書くことではなくて、コンパスの軸をしっかり中心に設定すること。


とかく、多くの人は、「私は305度だけど、きみは300度だね」とか、つまらないことにとらわれる。そして、周りの人のいろいろな言葉に一喜一憂したり、結果ばかりにとらわれて、右往左往する。でも、そんなことは、円の中のどうでもいい部分。


「自分」という中心さえ、しっかりいつももっていれば、揺らぐことはなく、大きな円をかけるようになる。


そして、円を書くたびに、どんどん半径を大きくして、いつかは無限に広がっていくこともできる」

っていうようなお話でした。

ちょうど、「自分」ではない、「結果」や「未来」のことばかりがすごく気になることがあったので、この話で気を引き締められた思いでした。


S先生の話で一番印象的だったのは、

「私は、お能が大好きで、大好きで、たのしくてたまらないんですよ。だから、大好きで、大切に思う息子や孫にも、やってもらいたいと思って、親子3代でやってるんです。楽しくないなら、子供や孫には幸せになってもらいたいから、薦めたりしませんよ」
と、本当に、幸せそうに目を細めて、ごく自然にさらりとおっしゃられたこと。
そう語るS先生の心の中は、ふわふわであったかい感じの「気」でいっぱいだったので、
「そうかあ。お能って、そんなに面白いんだ!」
と思って、こちらまで幸せな気分で一杯になりました。

この日は、S先生の息子さんのY先生ともお話する機会がありました。舞台を拝見して感じた「気」のとおり、すごく伸びやかで自由で屈託のない方でした。Y先生のお話では、「家で、こんな練習をしているんですよ」なんて話を伺って、「ああ、プロの先生だって、蔭でこんな努力をしてらっしゃるんだ。よし、私も、がんばろう!!」という気持ちになりました。

本当に充実した実り多い一日でした。

来年もまた、あったら、ぜひ参加したいなあ。

発表会 その2
ようやく、発表会の2日目も終わった!

今回は、先生に無理をいって連吟にも参加させてもらうことにした。そうでもしないと、謡の稽古はサボりがちになる私。
でも、連吟の世話役の方は、私が参加を申し出たお蔭で、きっとハラハラしたに違いない。5月1日にも書いたが、1日目の仕舞で、とんでもない大声を出してみた私だったから・・・。前日に、世話役の方から、
「周りの人たちは、あまり声が出ませんから、そこのところをよろしく頼みますね。それから、地頭にちゃんと合わせてね」
と、しっかりご指導をいただいた。確かに、10年前なら、突っ走った自信はある?!
でも、さすがに、この年になると、ちゃんと人にも合わせられた。よかったよかった。

ところで、普段、謡は個人稽古なので、人と一緒に謡うのは今回がはじめてだった。かなり勝手は違ったのが、逆にとても勉強になった。
なにしろ、個人稽古だと、先生は全部合わせてくださるし、自分の好きな音程で謡っていい(ありがたいことよね)。それに、先生と一緒に謡う時は、先生の呼吸が読めるときは、とても謡いやすい。また、出来ないときには、「私は生徒だから、出来なくて当たり前」と、ついつい自分を甘やかしてしまう。

でも、先輩のお弟子さんだと、そんなわけにはいかない!
まず、先輩の足を引っ張ったら大ひんしゅくだ。でも、慣れない音程で謡うから、練習の甘いところは、節が曖昧になる。そんなことを、あれこれ考えていると、息継ぎがいい加減になったり・・・。
もっと練習しなきゃダメだなー、と反省。でも、
「そうそう、この辺のくだりのお稽古、楽しかったんだよねー。お稽古中に、こんな風景が見えたんだっけー」
とか、想像にふけりながら謡えたのは、結構楽しかった。
 
ところで、お仕舞の方は、「東北クセ」という、和泉式部の霊か、はたまた梅の精か・・・という曲をやった。今の私の力では、こんなものかなーという出来だったけど、終わってみたら、多くの人から、
「森津さんって、荒い曲の人かと思ったけど、静かな物の方がいいかもよ」
 といわれたのでびっくり! 特に、いつも辛口的確で、一番タメになる批評をしてくれるSさんに褒めてもらえたのは、なにより嬉しい!

ただ、皆さんの評価に反して、舞い終わってみて、自分としては、今一つ手放しに評価できない。なぜだろうと丸一日考えた結果、
「観客は気がつかなかったみたいだけど、中間部分で、先生の謡のトーンを無視して、暴走したのが原因だ」
 という結論に達した。

たぶん、謡に耳を傾ける余裕がないくらい、舞うことに必死だったなら、こんなに後悔しなかったと思う。でも、今回は、謡がきっちり聞けて、しかも、先生がこちらの意図を十分汲んで謡って下さっているのがわかっていながら、中間部分では、その謡を無視して自分の「我」を押し通してしまったのだ。

というのも、今回、「東北」のテーマとして、「現世における、浄土と火宅」を表現したい、という気持ちが、とても強かったから。でも、後から冷静に考えると、あの短い舞の中では、コントラストがつきすぎだったのだと思う。でも、でも、表現したい気持ちが抑えきれなくて、「ここから先は、このトーンで舞いたい!」と、突っ走ったというわけだ。
でも、その結果、「頭」は好きなようにやって納得したけど、心にはもやもやが残ってしまった。

例えていうと、就職などで、子供をよく理解している親が、「お前の性格には、この職場はふさわしくないのでは?」と親切にアドバイスをしてくれているのに、子供は頑として、「絶対、この職場!」と意見を押し通して、結局は失敗するのに似てるかも・・・。
でも、とことん失敗してみないと納得しない性格なんだから、仕方ないか・・・。ただ、我を通すのは今回で、とっても懲りたから、次はもうちょっと素直に舞おう・・・。

それから、「褒められたこと」についても、ついでに分析しておこう。
普通、「失敗したこと」は、悔しいので、放っておいても反省する。でも、「褒められた時」って、人は案外、謙遜するか、喜んで終わっちゃうものだ。だから、いい面は、案外伸びにくい。だから、
「褒められた時こそ、出来るだけ客観的に成功要因を分析しよう」
と、日ごろから患者さんに指導しているので、自分でも実行。

 まず、(その1)にも書いたけど、
「静かな曲って、ホスピスに似てる」
と、思い始めてから、ゆっくりの曲になじんできたのは事実。
それから、動きが基本的なものばかりだったから、気持ちに余裕があった。
ボーっとしてても、「梅の木が生えている庭や池、梅の香りが漂っていくさま」がちょっとは目に浮かんできたし(リアルに・・・とは、まだ、いかない)、なにより、謡を味わう余裕があった。
あと、いつもは、ふわふわして地面が感じられないのだけど、今回は、かなり「床」とお友達になれた気分だったし・・・。自分なりに、内側に気持ちを引っ張れた。

それから、気持ちが煮詰まったところを通り越してしまって、「まあいいや、なるようになれば・・・」と、少し醒めた気分になっていたのも、よかったかも・・・。仕事なんかでも、気合が入りまくっている時より、ちょっと醒めたくらいの方が、結果的にいい仕事が出来たりするのと同じかもね。

もう少し経験を積み重ねれば、カウンセリングや講演会のときと近い状態で、体と心が使える気がしてきた。

結局、荒い曲と静かな曲を舞ってみて思ったのは、「自分をよく把握し、今の自分にふさわしいことを、奇をてらわずに、一つ一つ積み重ねることだなあ」ということ。
妹とも話していたのだけど、これって、仕事や普段の生活にもいえることかもしれない。「派手で、人目を引く仕事」は、人々の注目度が高い分、ある種の自尊心を満足させてくれる。でも、実は、自分の本質からかけ離れてしまったり、「自信のなさ」をごまかそうとした結果だったりすることも少なくない。

逆に、「地味な仕事」でも、「その時の自分」にふさわしいやり方で心を込めて行動していると、派手なやり方よりは注目度は落ちるが、伝わる人にはしっかり伝わるものだ。

そして、地味な努力を積み重ねて、本当の技量や自信がついてきた時には、自分でも信じられないくらいいい仕事が出来るようになる。でも、それまでには年月がかかるものだ。
…とは、仕事を通して学んだはずでも、やることがちょっと変わると応用が利かなくなるのが、人間の悲しい性だ。
ま、人間って、そんなものかもね。


おまけの話。
私は課題曲に取り組む時には、絵を描いたり、テーマソングテープを作ったりして、イメージトレーニングをする。今回の「東北」では、加えて、マンガ「ガラスの仮面」(美内すずえ)を読みふけってみた。
「ガラスの仮面」は、昔からの一番の愛読書だ。今回再読したのは、文庫版の20巻以後。主人公が、「紅天女」という芝居に取り組むくだり。

ここで、「ガラスの仮面」を知らない人のために、ちょっとストーリーを解説。
「主人公の北島マヤは平凡で何のとりえのない平凡な少女だった。しかし、往年の天才女優「月影千草」にその超人的な演技の才能を見出される。そして、同じく天才少女(実はものすごい努力家)ともてはやされる美少女「姫川亜弓」と、幻の名作「紅天女」の主役を争うことになる」
というのが、主なあらすじ。この中に出てくる「紅天女」という芝居が、かなりお能を意識していると思われる話なのだ。しかも、世の中の真理とか、生命とか、宇宙観とか、いろいろなことを実に見事に包括して表現された奥深い話でもある。「紅天女」の芝居は、こんなあらすじ。

「世の中が天変地異や争いで平和を失った時代のこと。時の帝は不思議な夢を見た。

「千年の梅の木で、仏像を彫ると、平和が訪れるだろう」
 そこで、帝の勅命を受けた仏師「一真」は、千年の梅の木を求めて旅に出る。途中で、大怪我をした一真は、里の娘に助けられる。娘の看護を受ける中で、一真は自然の大切さを娘から学び、いつしか娘に恋をする。娘もまた一真に恋をする。
しかし、一真には千年の梅の木で仏を彫るという使命があった。ところが、その千年の梅の木の精「紅天女」こそが、里の娘だったのである。しかも、梅の精は天地の神々を束ね、自然を守る役目を授かっていた。

梅の木を切れば、愛する娘の命、自然の守り神の命を絶つことになる。でも、戦乱の世を救うために、使命は果たさねばならない・・・と悩む一真。その気持ちが痛いほどにわかるだけに苦しむ梅の精。

……数年後、梅の木で作られた仏のおかげで、世の中には平和が訪れた。仏を彫った仏師は行方は知れない・・・」

往年の天才女優「月影千草」が能面をつけて、自分の切なくも情熱的な人生とダブらせながら、「紅天女」を舞い、演じるくだりはなかなかの圧巻(一読の価値はありです!)

以前読んだ時には、今思うと、作者がいわんとしている「深い生命観。宇宙観」を観念的には理解できても、実感として理解できてなかったように思う。でも、ここ1年くらいのいろいろな体験のおかげで、
「なるほどー。そういうことだったのかー」
と、納得できたこともあり、また違った読み方が出来てなかなか楽しかった(まだ、実感としてわからないとこもあるけど…)。
で、すっかり、丸一日「ガラスの仮面」の「紅天女」の世界にどっぷり浸りきったら、だんだん、現実の方は気持ちが醒めてきて、
「和泉式部・・・梅の精・・・紅天女・・・うーん、何をやっても、観客には、そうそう違いなんて、わからないだろうから、謡を聞いてて、舞っているときに浮かんできたイメージでいいや」
と、半分、どうでもいい気分になってきた。
で、「なるようになるさ。すべて、その日の運任せ」
と思って、舞ったのが、一番よかったんだったりしてね。
やっぱり、やるだけやったら、あとは神頼みが一番だわっ!
「小塩」
「お能というのは、二千番以上見ないと、あれこれ言ってはいけない」というのが通説らしい。でも、そんな中にあっても、私たち素人連中に、
 「でも、やっぱ、お能ファンを増やすためには、「よくわかんないけど、すっごく感動した!」ってことは、素人なりの方法で、声を大にして語った方がいいよねっ! だって、感動は分かち合った方が、もっと楽しくなるし、素人だって、感動するんだしさっ! 素直に、いいものはいいと言おう(書こう)!」
って言わせるくらい、この間のT先生のお能「小塩」は、すっごくよかった!!!

「小塩」というのは、伊勢物語の第76段に、基づいて作られた曲。「在原業平の霊が、桜の花をめでながら、昔愛した女性「高子の后」のことを思い出す」ってストーリー。

ほんとに情感たっぷりで、後半はとっても切々とした想いが伝わってきたので、客席では目頭に手をあてていた人が、そこここにいた。Sさんなんか、お能が終わった途端に、
 「よかったよねー!序の舞もよかったし・・・。でも、一番は、桜の前で、開いた(お能の動きの型の一つ。両腕を開いた形)ときかな?愛情たっぷりに、桜の木を抱きしめそうな感じで、ぞくぞくしちゃった。色っぽさを感じたよー!最近の先生のお能の中で、一番よかったー。先生の魅力、100%出てたって感じ!」
 というもんだから、私も,
 「桜の木になりたい!・・・って気分でしょ?」
と返したら、「そうそう!」とうなずいていた。
ところで、感動する部分は、みんな一緒みたいで、Mさんも、やっぱり、「桜の花の前の開き」を見て、
「そうよ。私がやりたいのは、この「開き」だわ。発表会の仕舞では、私もこんな風に「開き」をやりたい!」
と、思ったんだそうな。さらに、萌ママも、
 「お能初心者の友達連れてたから、集中力鈍ってたけど、それでも相当感動したんだから、やっぱり,相当すごかったよねー」
 といっていた。
結局,私もSさんも,その後すっかり、先生の「小塩」の世界を引きずっちゃって,狂言が終わって,仕舞が終わって,次のお能の途中まで抜け出せなかった。

お能だけにかぎらず、お芝居、歌舞伎、舞踊、講演会と、舞台をみるチャンスは、人生の中には、何十回、何百回とあるだろう。でも、たくさん見れば見るほど、心に残る舞台っていうのは、逆に少なくなるように思う。だからこそ、
 「ああ、あの舞台は、一生心に残るね」
と思える舞台に巡り合えることって、それだけで幸せなことかもしれないと、思った。

ところで,いい舞台を見ると、いろいろ想像力を掻きたてられたり、人生について考えさせられたり(ちょっと大げさ?)するので、しばらく、あれこれ自分の中で味わえて、楽しい。以下は、私の頭の中の想像の世界。

「高子の后も、あの「業平」と同じくらい、業平のことを愛していたら、すごく辛かったろうなあ。だって、愛している人がいるのに、別の人の子供を生まなきゃいけないんだから。そういう意味じゃ、源氏物語の藤壺の方が、辛かったかもしれないけど、幸せかもね・・・。

でも、高子も藤壺も、この間ホスピスで亡くなった76歳のHさんよりは、絶対幸せだと思う。
Hさんは19歳で結婚してすぐ、3ヶ月で夫が戦死しちゃったんだもんね。
「再婚したけど、人間不信で絶望するくらい悲惨な生活だったんですよ。それでも、今まで生きてこられたのは、亡き夫が好きだった短歌を続けていたから。でも、これで、やっと、夫の元にいける・・・。こんなおばあちゃんになってしまったけど、向こうの世界に行ったら、夫は私のことがわかるかしら・・・。夫が肌身離さず持っていた腕輪数珠、再婚したあとも、こっそり手元に置いておいたの。先生、はめてくださる?これをつけて、向こうにいったら、きっと、私ってわかってくれるわよね?」
って、おっしゃられるものだから、思わず、
「私がだんなさんだったら、絶対に真っ先に飛んできますよ! 絶対、絶対、待っててくれてますよ!」
って、言ったんだけど・・・。ほんとに、死ぬというより、お嫁入りするみたいで、とっても、幸せそうでかわいい顔をしてらしたっけ・・・。

でも、60年間も死んだ夫のことを思いつづけて、一人ぼっちで生き続けるなんて、辛過ぎるよ。私なんか根性なしだから、そんなに好きな人が死んじゃったら、後を追って死にたくなっちゃう。でも、自殺する勇気もなさそうだから、うんとストレスためて、病気になれるよう努力する!

やっぱり、Hさんより、絶対、高子や藤壺の方が幸せだよ。一緒には暮らせなかったけど、業平や源氏にいっぱい愛されて、同じ時代に生きることができたんだから。彼女達も、そのことに気がついていたら、苦しい中でも、もうちょっと幸せでいられたかもね・・・。あ、でも、それじゃあ、「物語」にならないか!

それに第一、高子ちゃんも幽霊になっているなら、「業平」があれだけ桜を見ながら思い出してくれたら、桜の陰から出てこいよー! 幽霊になってたら、もう何の障害もないだろうがー!
・・・と思ったけど、それもやっぱり、「物語」にならないわね。
ところで、ちまたの歴史本によると、高子って結構遊び人だったみたいよね。やっぱ、私は藤壺の方が好きかな(ちなみに、私は源氏物語では藤壺と宇治の大君が好き)」
 うーん、あれこれ、想像は膨らむ膨らむ・・・・。



(発表会 その1)お能

先日、今年の春のお能の発表会の一日目が終わった。
前回は「敦盛」でおっとり系のおさえた役柄だったのだけれど、今回は「善界」という「天狗」の役だったので、
 「ふっふっふ・・・今回は思いっきり、やりたい放題できる! 」
 と、ワクワク下心たっぷりだった。で、
「まずは、この一年、声の訓練もしたことだし、どのくらい大きな声が出るか、試してみよーっと」
 と、こともあろうに、本番でいきなり、思いっきり大声で謡ってみた! 萌ママいわく、
「普通、本番で試すかー?!」
 で、私、
「だって、仕舞の人は、リハーサルなしなんだもん! 他にどこで試すのさ。それに、「負けず嫌いで、生意気な天狗」の役だから、いいかなー・・・と思って。

でも、あとで、ビデオ見てみたら、あんな大声を聞かされたら、観客、怖かったろうなあと、自分でも思ったよ」
「能楽堂が揺れてたよ!」
「うん。自分でも、あんまり声がとどろき渡ってるんで、びっくりしながらも、「わー、響いてる、響いてる、おもしろーい!」
って、思わず楽しくなっちゃった! でも、先生は、「やれやれ・・・。やってくれたよ、困ったもんだ」って思ったと思うよ。地謡が聞こえてきて、「その調子で、突っ走ったら、どうするんだー?!」って、「気」が飛んできたように思ったから、ちょっと冷静になって、「いかん、いかん」って、これでもトーンを落としたのよ。
先生も、相当気を使ってくれて、ゆっくり謡ってくれたみたい。おかげで、あまり「トラ」になって暴れずにすんだ!」
 「うそ!?まじ?! 十分、200%くらいエネルギー出てたよ。十分、速く動いてたし・・・」
 「私の中じゃ、80%って感じかな。あれ以上、自分のエネルギー出したら、今の自分の筋力じゃ、コントロール不能だからね。それに、エネルギーの出す方向が、外向き過ぎるしねー。

仕事で「心」をコントロールする時のように、外側に出すエネルギーの2倍くらいの力で、内側に引っ張れないとダメなんだろうなあ、とわかっちゃいるんだけど、それだけの技術と力と落ち着きがまだないからねー。ま、「心」の訓練と同じで、「体」の訓練も、時間かかかるもんだからね。今後の課題だわー」
「ほんとに、T先生、心配そうにずっと見てたよー」
 
ほんとにまったく、こういう「本番で何をやらかすかわからない、じゃじゃ馬な弟子」をもった師匠っていうのも苦労するよね。T先生、すみません・・・。

ところで、今回は、次の2日目の会では女物を舞うことにした。こっちは、超スローな曲。極端な2つの曲をやってみて、気がついたことがあった。
私は結構気が短くて、ちょこまか動くし、エネルギーがありあまってるから、今まで、速くて荒い曲の方が合うかと思っていた。でも、実は、ゆっくりの方が、ある意味、性に合うらしいことがわかった。これって、丁度、医学でいえば、外科が合うか、ホスピスが合うかっていうのと、似ている気がする。
フラメンコとか、お能の中の荒い曲って、白黒つけてスパスパたくさんのことをこなしていくあたりが、医療でいえば外科に近い。

ゆっくりの曲はどっちかというと、ホスピスの仕事に近い様な気がする。
薄々そのことには気がついていたのだけど、はっきりそれを自覚したのは、発表会の前々日に見た夢のおかげだった。夢の中で、びゅんびゅん飛ばして、振り回される車に乗っていた私は、「ああ、私、速いの苦手なの。もっとゆっくり走った方がいいのに」と、つぶやいているのだ。目が醒めて、ハッと気がついた。
「今の私の筋力では、いくらがんばっても、先生と同じくらい速く、たくさん動くのは無理なんだ。無理せず、今の筋力に見合った速度と距離で、分相応な動きをした方がいいんだ!」
そう思って、ゆとりもって動いてみたら、超、楽だった。
ゆったりするのは、最初は自分の中のいろいろな焦燥感と向き合わないといけないし、エネルギーの出し方のコントロールが難しい。でも、それさえうまくできれば、ゆっくりの方が、肌になじむような気がする。

やっぱり、人間のパターンって、何をやっても似てるもんね。