ひまわり先生のひとりごと 2006年6月 |
2006年6月25日 |
ここ1−2週間、珍しく大変なことがいろいろ重なった。どうも、人生には流れがあるので、大変な時期は大変が重なりやすいらしい。 でも、そのお蔭で自分の人生を振り替えるいいチャンスになった。 今でこそ、のんびりした生活をしている私だが、昔はかなり荒んだ生活していた時期があった。正直いって、心の奥深くにしまい込んで、墓場まで持っていきたいような悪いこともいっぱいやった。 そうした時のことを思い返してみて、「あの時、もっとうまく乗り越える方法があっただろうか」と今考えてみると、 「今の私の力でようやく乗り越えることができるような問題だったなあ。当時の私には、あれ以外に乗り越える方法はなかった」 と言い切ることができる。さらに、当時、自分の周りにいた人々のことを思い返してみても、「当時の私を十分サポートできる力を持った人は周りにはいなかった」ということもよくわかる。 誰も問題の乗り越え方をわからない状況下で、混乱なく問題をうまく乗り越えるのは至難の技だ。ならば、しっちゃかめっちゃかでも、とりあえずなんとか問題をやり過ごして、今、生きているということは、それだけで十分だったんじゃないかな、と今では思う。 そして、当時の自分に対して、今の自分ならば、 「あの状況下でうまく対処するのは無理だったし、周りの人もうまく私に対処できなかったんだ。そういう行動をしてしまっても、仕方なかったと思うよ。辛かったね。でも、よくがんばって乗り越えたね」 と言ってあげることができる。それは、何よりも過去の自分にとってのプレゼントだ。 それに私自身、さんざん失敗をして、破茶滅茶な生き方をしたお蔭で、似たような生き方をしている人たちの気持ちも、対処方法もよくわかるようになった。だから、そうした経験も無駄ではなかったと思える。 人間、長く生きていろいろな経験をしてみると、許せることが増える。すると、人生は結構楽になるし、自分の人生も愛しく思えてくるもんだ。 |
2006年6月17日 |
本の原稿が仕上げ段階にきているので、過去に読んだ重要な本の中で使えそうな言葉や考え方を内容に反映させようと、再読している。すると、今までとは違った読み方ができて面白い。おそらく原稿を書いたお陰で視点が変わったためだろう。興味深かったのは、考えが煮詰まったときにバイブルのように何十回となく必ず読んでいた本があるのだが、それをあらためて読んでみて、 「これはもう読む必要がない。読んでいると、かえって疲れてくる」 と感じたこと。 本にも波長のようなものがあるから、ある時期、 「これは自分にはぴったりの本だ」 と思っても、自分が変化すると「合わない」と感じることもあるようだ。 たとえていうと、元気な時に聞きたい曲と、落ち込んだときに聞きたい曲が違うようなものだろうか。 また、今回の本の再読は、自分自身の心の整理をつけるのにとても役立ったように思う。一つの山の頂上に辿り着いて、 「ああ、私はこのルートで登ってきたのね。でも山を登りきってみたら、必要な道具は、これとこれだけだった。他の用品は私には必要なかった。この先も必要ないだろう。 これとこれは捨てて、こっちは整理してバッグに詰めなおして、次はあの山を目指そう」 と考えが固まった感じ。 時には、自分がきた道をじっくり振り返ってみる時間を持つのもいいかもしれない。 ところで、この先はマニアックなマンガの話。 先日、石塚夢見さんのコミックス「ピアニッシモでささやいて第二楽章」の最終巻が発売された。長編の連載マンガは終わり方が難しい。石塚さんの作品では「愛のように幻想(おど)りなさい」が一番好きなのだけれど、終わり方がちょっと不消化だった。でも、今回の「ピアニッシモ…」の最終回は「愛のように…」の不消化な部分も満たしてくれた感じ。きっと作者も作品と共に成長したんだなあと感動した。 最終巻では、人と宇宙の繋がりのエネルギーがうまく表現されていて、ひかわきょうこさんの「彼方から」の最終巻や美内すずえさんの「ガラスの仮面」の40,41巻とも合い通じる部分があると思った。かなり私好みの表現スタイル! でも、他人の作品で読むだけでは飽き足らなくなった私は、同じようなエネルギーを自分でも表現してみたいなあと思い、次に出す本でチャレンジ! はてさて、どうなることやら?! ―――――――――――― 出版情報 仮題「僕が僕に還る旅」アートヴィレッジ社 8月下旬発売予定 |
2006年6月7日 |
週末は久しぶりに講演会に行って来た。 いつも通りにホスピスやひまわりの診療の話をしてきたのだけれど、自分の中で何かがしっくりこない。 「なんでだろう」と帰路であれこれ考えてみて、出た結論は「私の中で『旬な話題』じゃないからだ」と気がついた。 同じような感覚は、仏教ホスピスを辞めたあとに、 「仏教ホスピスについて講演をしてください」 といわれた時に感じたことがある。 「今、私自身が仏教ホスピスに勤めてないのに、『仏教ホスピス』について語るのは、なんだかしっくりこない」 という思いが強くなって、「仏教とホスピス」という形で講演することはあっても、「仏教ホスピス」そのものに関して講演することはなくなり、講演内容も大幅に変わった。 その時の感覚と、今の感覚が似ているのだ。 とはいえ、今現在、ホスピスにも勤めているし、クリニックではガン、うつ、引きこもり、出社拒否等の相談も行っているので、講演会では自分の生活とかけ離れた話をしているわけではない。 ところが、イマイチ自分の内面と講演内容が微妙に食い違っている感じがする。 たぶん、ここ一年くらいで私の仕事へのスタンスが大きく変わってきていることが原因かもしれない。表面上はどの仕事も同じようにうまく流れているし、むしろ診療効果は以前より格段に上がってきている。でも、私の中では、今までは「私自身が診療している感じ」だったのが、この一年くらいは「なにか大きな力に動かされて、納まる所に納まっているだけで、本当の私自身は別の方向を向いている感じ」なのだ。 なので、自分の中で「こういう形の講演ならば、今の自分の内面とマッチする」というような演題や講演内容を思いつくまでは、当面新規の講演活動はストップすることにした。 今後、本業や講演がどういう形に流れていくのかはわからないが、とりあえず、流れに身を任せつつも、より「自分らしい形」を模索していこうと思う。 |
2006年6月4日 |
先日、柴犬「萌」ちゃんのママの結婚披露パーティがあった。 ダンナはK大の教授、萌ちゃんママも元スッチーで美術界から財界まで幅広いお付き合いがある…ということで、「小さなハウスウエディング」といってもその面々たるやすごいものがあった。 こういう本格的なパーティに準じたパーティに参加って、一見かっこよく感じられるけど、 「やっぱりそれなりに地位のある人達というのは、エネルギーが半端じゃない。こういう人達がたくさん集まっている場所というのは、私にとっては『ギンギンのロックハウス』にいるくらい強烈にエネルギーを感じる。今の私には、こういう場所は向かないなあ」 と、しみじみ痛感した。 一緒にパーティに参加した妹曰く、 「なんだか、お姉ちゃんのスピーチ見ていて、ボルゾイとかアフガンハウンドとか、高級犬の中に柴犬が混じってスピーチしてるみたいに見えた。 まあ、柴犬ったって、チャンピオン犬かもしれないけど、でも、所詮、柴犬は柴犬だよね。 あるいは、クラシックのコンサートでいきなり「さだまさし」が一曲歌いますって感じ? さだまさしの歌は歌でいいんだけどさ、クラシックの中には浮いてるって感じ」 あまりに的を得た表現に、大笑いしてしまった。 自分にふさわしい場所をわかって、そこに自分を置いてあげることは、とっても大切だし、自分にとっても親切なことだとしみじみ思う。 人って、案外自分自身のことがわかっていないから、頭の中で描いている理想だけで、 「社交界デビューしたら、すごく幸せな気分になれるかも」 「社長になったら、人生に成功を感じられるかも」 「結婚したら、二人でもっと幸せな時間が紡げるかも」 「子供が生まれたら、家族らしい家族になれるかも」 と夢を膨らませがちだ。でも、実際の物事には必ずいい面だけでなく、大変な面も付随してくる。 社交界にデビューしたら、みんなのやっかみを受けたり、非難中傷の言葉を矢のように浴びせ掛けられるかもしれないから、それに耐えられるだけのたくましい精神力が必要だ。 社長になって、自分の思い通りに物事を動かそうとすれば、部下から反発を食らうかもしれないし、どんなに文句ばかりいう部下でも面倒をみなくちゃいけないかもしれない。 結婚したら、お互い遠慮がなくなる分、相手の嫌な部分ばかりが目について、生活を楽しむどころか、ケンカが絶えなくなるかもしれない。 子供が生まれても、家族の問題が解決しないばかりか、もっともっとややこしいことになってしまうかもしれない。 頭の中の理想の夢物語ばかりを求めずに、「本当にそれが自分にとっての理想の生活になりうるのかどうか」と客観的に検証しなおしてみると、案外、今自分が生きている生活環境の方が自分にぴったりなものだったりするかもしれない。 たとえば、カンダタは 「こんな地獄の中をはいずっているなんて、辛くて嫌だ」 と思うかもしれないけれど、実際に、極楽の蓮池の周りで毎日散歩ばかりしている生活をしてみたら、 「刺激がなくてつまらない」 と思うかもしれない。「つまらない。苦痛だ」と思った瞬間に、極楽は「退屈地獄」と化すというわけだ。だから、極楽で暮らすには、 「毎日花だけ見て散歩している生活」 に満足していられる精神力が必要だったりする。 ついでに、お釈迦さまになるには、 「せっかく蜘蛛の糸をたらして、助けようとしているのに、どうして地獄の人達は上手に登ってこれないんだろう。ちゃんと、細いけど、ちゃんと極楽への道はあるのに」 と切なく思いながらも、 「まあ、自分自身が心を入れ替えて、本気で地獄を脱しようと思わないんだから仕方ないか」 と、黙って何億何万年も地獄の人達を見守る力が必要かもしれない。 黙って見守っているよりは、案外、地獄の針山の中で、 「この手に掴まれー!」 とか、叫んでいる生き方が楽だと思う人もいるだろう。 …ということで、時に立ち止まって「なんで自分はこういう人生を歩いてるんだろう」と考えてみるのも悪くないかもしれない。 |