ひまわり先生のひとりごと

2006年5月


2006年5月18日
先日、旭山動物園のドラマを見て、ちょっと感動した。
子供向けの施設のようなところは、「死」を隠す傾向があるのに、「動物を通じて、生と死を教えたい」と、動物が亡くなった時に「喪中」のお知らせを出しているのには、びっくりした。なかなか勇気ある素晴らしい方針だと思った。
 それに何より「自分たちも楽しい、面白いと思える動物園に。動物たちにも優しい動物園に」という発想にも心打たれた。
 やはり、「優しさ。楽しさ。愛」から創られるものにはパワーがある。

 話は変わる。
先日、いろいろな邦楽のアンサンブルの舞台を見ていて、つくづく、
「ああ、人は目の前に華やかなものがたくさん見えると、見えるものに気を取られて、心の内面が見えなくなるんだな。
心の内面がうまく「形」に反映されている時は、「形」が「内面」を理解するのにとても役立つ。でも、「形」と「内面」が違っている時、人は「形になっていて、わかりやすいもの」を「真実だ」と信じる傾向があるんだな」
と強く感じた。
もしかして、私たちは「形」に目を奪われるあまり、「本質」を見失ってしまうことが多々あるのかもしれない。

最近、読んだヘレン・ケラー(三重苦の偉人)の本の中に、次のような話が書かれていた。
「知覚したもののすべては、実は外側にあるのではなく、内側に存在する。しかし、なんと多くの人が、知覚したものが外にあると勘違いしていることか。
たとえば、ユリの花の匂いをかぎ、その花びらに触れて、「いい香りだ。なんて柔らかい手触りなんだろう」と感じた時、本当は自分の嗅覚と触感が感じ取ったことなのに、人は「匂いと感触は、ユリそのものにある」と勘違いしやすい。
また、多くの人々は、「目も見えず、耳も聞こえない人は、自然や音楽や舞踊を楽しむことはできない」と思うようだ。しかし、こうしたものを楽しむ感性は、私の心の中にも存在する。私は心の目と心の耳で、見ることや聞くことができる。
見えない、聞こえない私にとっては、多くの人が「確かなもの」と思っている「実体のある存在」も、「不確かなもの」と思っている「見えない存在」も、どちらも曖昧で不確かな存在なのだ」

彼女は「見る。聞く」という力を持たなかったが故に、自分の内的な感覚を全面的に信頼せざるを得なかったらしい。そのため、普通の人以上に「自分の中から湧いてきた本来の自分の感覚」と、「周りの影響で引き起こされた感覚」をはっきり区別できていたようだ。
 
 もしかすると、たくさんの情報を持っている私たちは、いつの間にか「周りの影響で生まれた自分」を「本当の自分」だと思いこんで、「本来の自分」を見失ってしまった結果、自分を信頼できなくなるのかもしれない。

 また、ヘレンは、「自分の境遇」を受け入れて、それを最大限利用して、普通の人以上にたくさんのものを感じ取り、人生を楽しむことができた。
あるいは、「なぜ自分ばかりが、目も見えず、耳も聞こえないのだろう」と嘆き悲しんで、文句を言い続けて、人の世話になって一生を終わることだってできただろう。でも、彼女は「目も見えず、耳の聞こえない体」を「神からの最高の贈り物」だと思っていたようだ。

 彼女のように、「他人は持っているのに、自分は持ってないもの」が、「自分の最大の特徴であり、自分の人生に幸福をもたらすキーになる」と考えれば、人生に違った輝きがもたらされることがあるかもしれない。

 私自身も、自分の人生の中で、「なぜ、私の人生にはこれがないのだろう」と思ったことが多々ある。
 「なぜ、やりたいことができる家に生まれなかったのだろう。
本来なら、「どうしてもやりたいことは、何がなんでもやる」という性格なのに、なぜ、反対を押し切ってまでやれなかったことがいくつもあるんだろう。
 なぜ、二番目に関心のあったことを仕事にしたんだろう。
 なぜ、関心を持ったことをとことん極めようという気にならないんだろう」
 そうした一つ一つの「なぜ」に、「こうあるべき」という「周りから教えられたあるべき姿」を押し付けずに、「今ある姿こそが、自分自身の存在理由」と肯定すると「本当の自分」が見えてくるような気がする。

 ここまで生きてきてようやく私は、自分にこう言ってあげることができた気がする。
「あなたが本当に大切にしたいことは、「これ」でしょう?
一番大切にしたかったものを見失わないため、大切なものをいつも最高に大切にするためには、よくよく考えたらこの人生ほど相応しい人生はなかったんじゃない?
 この人生は大変だったかもしれないけど、たぶん、他の人生は選ばなかったんじゃないかしら?」

 たぶん、どの人の人生も理由があって、「その人生」を選ぶことが、「自分の一番大切」を大切にできる人生になっているのだろう。そのことに、多くの人が死ぬまでに気づけたらいいなあと思う。


 新刊の出版に付いての問い合わせがたくさんきていますが、ごめんなさい。編集上の関係で、当初の予定より遅れています。出版社の方が、「できるだけ読みやすく、愛される本に」と努力してくださっていますので、もう少しご猶予下さいませ。
決まり次第、HPにアップします。
2006年5月11日
新緑の季節になって、「ひまわり」の猫の額ほどの庭では、緑がどんどん生い茂っている。
 
実は、現在「ひまわり」のある場所は、昔は大きな山で緑がうっそうと茂っていて、緑の精霊がたくさんいそうなところだった。地主さんが税金や相続税を払えないということで、山を切り崩して開発せざるを得ないと聞いたとき、
 「都会にこれだけの緑のあるところはめったにないから、なんとか、緑の何本かでも守りたいものだ」
 と思って、購入を申し出た。

 結局、緑を残すことはできなかったのだけれど、山が切り崩されるときに、ちょくちょく現場にいっては、
 「森の精霊さんたち、待っててね。ひまわりを作ったら、必ず草木を植えるから、そこに戻ってらっしゃいね」
 と声をかけていた。

 その願いが叶ったのかどうかわからないけれど、「ひまわり」では「樹」がものすごく茂る。植えたときには、どの樹も草も「本当にこんなので育つんだろうか」と思うくらい貧弱だったのに、今じゃ、もう何年もここに植わっていたかのように青々とした葉を伸ばしている。
 その緑を見るたびに、「精霊さんは、戻ってこれたに違いない」と勝手に思っている私である。

 そして、気持ちの上ではもう何年もここで仕事をしているような気になっている。でも、考えてみれば、一年前にはまだ、「新ひまわり」は跡形もない状態だった。わずか一年の間に、人生というのはどんな風に変わるかわからないものだ。
 もっと考えてみれば、10年前にはまさかこんな生活をしているとは思いもよらなかった。

 そんなこともあって、私は「10年後のビジョンを考えて生きよ」という考え方には賛成しかねる。なぜなら、1年後の自分は今の自分では想像がつかないくらい大きなビジョンを作り出せるかもしれないからだ。まして、10年後の自分なんてどのくらいビックになっているか、見当もつかない。

そんなこともあって、私は10年後のビジョンを考えて悩む暇があったら
「10年後の自分にも納得してもらえるような「今日」を生きること」
に専念したいと思っている。

ある程度のビジョンや方向性を持つことは大切だけれど、今の小さいビジョンで未来の自分を縛る必要はない。いい意味で曖昧なビジョンほど、想像もつかないくらいすばらしい可能性の未来を秘めている。
2006年5月6日
お能の会が終わって、やっと本格的に気分はゴールデンウィークになった。

 ところで、最近、身の回りで起こるちょっとした「事件」を客観的に観察する立場にいることが多い。
「事件」というのは気持ちのいいものではないけれど、ちょっとだけ離れたところから見ると、かなり人生の勉強になる。なぜなら、客観的に見ていると、「事件」が起こっている時に同じ空間と時間を共有していても、その「事件」に巻き込まれる人と、巻き込まれない人がいることがよくわかるからだ。

たとえば、「事件」が勃発している時に、別のことに没頭している人は「事件」が起こったことに全く気がつかない。「事件」を最初から最後までしっかり見ていながらも、ことの成り行きが全く理解できてない人もいる。また、ちょっとしたアクシデントで済むはずだった出来事を、知らず知らずのうちに「大事件」に発展させる人もいる。他にも、「事件」に気づいて小さく押さえようと画策して失敗する人、できるだけ事件に関わらないように見て見ぬ振りをする人、事件が起こる確率が高いことを予測して現場から離れる人…等。人の数ほど、いろいろな関わり方がある。
そして、もっとも運がいいのは、「事件」が起こる直前に、偶然に導かれて、現場から離れるチャンスを得る人!

 起こっている「事件」はたった一つにもかかわらず、その事件を通して体験する出来事というのは、人それぞれで違ったものになる。
「なるほど、人間というのはこんな風に、一つの「事件」を通して、自分が今現在学ぶ必要があることを学べるチャンスにしているのだなあ」
と痛感した。

ついでに、誰が、どんな形で事件に巻き込まれているかを見ると、その人の人生のスタンスや現在向き合っている課題が見えて、とても興味深い。客観的に見る目というのは本当に大切だと思った。

話は変わって…。

随分昔、「よしもとばなな」の小説にハマったことがあるのだけれど、ここ何年かはすっかりご無沙汰していた。が、先日久々に新刊を読んで、その表現と感性の豊かさに、「うーん、すごい」を連発してしまった。

ストーリーはなんてことのない内容だが、この人の感性はやはりすごい。…というか、この人の表現する「日常の中の生と死の感覚」には、とても共感できるものがある。
文章を書く者としては、短い文章の中で、あれだけの感性を端的に表現できる力は、学びたいものだと思う。

さらに、話変わって…。

 今年のお能の会で私が舞った「船弁慶」という曲は、お能の中ではかなり派手でとても面白い演目。

 お能って、たいがいは「キューティーハニー」「仮面ライダー」「ウルトラマン」じゃないけれど、前半は普通の人間の姿をしているけれど、「その実体は?!ヘンシーン」と、後半で本来の幽霊や神様の姿に戻る…というパターンが多い。
 でも、「船弁慶」は、前半が「静御前」で、後半が「平知盛の怨霊」と、全く関係のない人物なのだ。そこで、前半と後半で、主役(シテ)を演じる人が交代するケースもある。
 でも、観客としては、同じ役者がいかに、前半は楚々としたかわいらしい静御前を演じて、後半で怨霊に化けるかを楽しめる面白い舞台だ。しかも、一曲でお能本来の醍醐味である女物の幽玄の世界と、素人には一番見ていて楽しい「派手な立ち回り」が楽しめる出血大サービスな演目。
 
 なので、今まで私は「この演目は、前半と後半がまるっきり別物」と思っていた。ところが、ずっと、知盛の怨霊を舞っているうちに、だんだん、それでは納得がいかなくなってきた。
 「怨霊の知盛は、正義の味方義経と弁慶に倒されました…という勧善懲悪の話で終わっちゃっていいのかなあ。なんか、それって、子供だましのヒーロー映画みたいで薄っぺらいよなー。
争いなんて、どっちにも言い分があるんだもん。知盛だけが悪者なんて、可哀想だし…」
 と、だんだん欲求不満がたまってきた。

で、結局、最終的には、自分勝手にこんな風に解釈してしまうことにした。
「後半の舞台では、静御前は全く出てこないのだけれど、静を影の主役に仕立てた舞にしてしまおう!
知盛が倒されたのは、義経の剣の腕、弁慶の読経の力に加えて「静の愛の思念」が大きかったから。知盛は「力」に負けたのではなく、静の愛に負けた。
知盛は誰しもが持っている「消え去るべき古い自分」「手放したい感情」の象徴。「よどんだ感情」が、静の愛の光に包まれて消え去っていく…というイメージで舞えたらいいなー」
 と想像を膨らませてみた。
そうしたら、舞いやすいの、楽しいのなんのって…。
とはいえ、本番では緊張して、前半はボロボロ。でも、後半のイメージだけは自分なりに上手く描けたので、満足満足。

 解釈次第でいろいろな形に自在に変化させられるから、芝居って本当に面白い!