ひまわり先生のひとりごと

2006年3月


2006年3月28日
週末、ひまわりに以前同居していた由香ちゃんの結婚式だった。
しっかりした規模で、偉いさんたちも随分集まった結婚式だったのに、列席の方々はとてもアットホームな人ばかり。式次第も、当人達の人柄がにじみ出るようなあったかい内容で、本当に良かった。

この年になると、「結婚式って、その人の歩いてきた半生を振り返るいいチャンスなんだなー」なんて感じて、若いころとは違った感動を味わえていいものだ。

ところが、すっかりお祝い気分になって、ここしばらく断っていたお酒を飲んだら、一気に花粉症が出てしまった。今年、花粉症がほとんど出ず、薬も飲まずに済んだのは、やはり、お酒を完全にやめたお蔭だったと判明。
おいしいビールやワインと花粉症を天秤にかけたら、やっぱり、花粉症が出ない方がずっといい。残念だけど、GWが過ぎて、花粉がおさまるまで、健康的な生活を心がけよう!

話は変わって・・・。
先週終わったドラマ「白夜行」は、セリフ、脚本がとてもよく、脇役の名演技もあって、かなり面白かった。
「悪の道を歩いてしまう人にも、それなりの理由がある。誰でも一歩間違えば、優しさゆえ、愛ゆえに、過ちを犯してしまう可能性がある。
子供達が過ちを犯さないためには、まず、大人達の生き方が大切」
というメッセージをうまく伝えていたと思う。

特に、「誰かから、罰を与えられるから、悪いことはしてはいけない」のではなく、「本当の罰は心に下されて、いつしか魂を蝕んでしまう」という表現は、圧巻だった。
悲しくて救いようのないストーリー展開の中に、本当に「白夜」のような儚い希望の光を紡ぎだせたのは脚本家の力によるものだろう。個人的には、原作よりずっといいと思った。この脚本家のドラマなら、また見てみたい。
2006年3月23日
今書いている本の原稿がいったん私の手を離れたので、ホッと一息。ただ、これから、編集の手が入ったものを手直ししてから入稿になるので、本になるのは早くても、5月末って感じ。4月はちょっと忙しくなりそう…。

今回の本は童話というか、小説仕立てにしたので、私自身が一番書きたかったことを好き勝手に書けて、けっこう楽しかった。 書いているうちに登場人物が勝手にお喋りをはじめたので、書きとめながら、
「え、それって、そういうことだったんだ!」
 と、発見することが多々あり、書いている自分自身が一番勉強になった。

でも、もっと驚いたのは、一通り原稿を仕上げて、「書き漏らしはないかな」と、過去の自分の本をチェックし直した時。似たようなことは、もうすでに、書いてあった!
 
なんてことはない、人生ですったもんだして、あれこれがんばっても、結局行きつくところは、
「人生に必要なものは、最初から全部自分の中にあった」
という結論なのかもしれないなーと思う今日この頃。

まあ、あちこち旅をして、いろいろな刺激的なものをたくさん見たけれど、「生活するには我が家が一番」って思うのと同じかも…。

でも、「我が家が生活するには一番」ってことは、我が家以外のものを見てみないと納得できない。それに、ずーっと、「我が家」ばかりに引きこもっているのも、あまりにもつまらない。さらに、「住み慣れた我が家も、こんな風に工夫すると、もっと住み心地が良くなる」という発見ができるかもしれない。
 …ということで、人はいろいろな刺激を求めて、「自分以外のもの」を体験するのかも。

原稿が仕上った今、思うのは、
「結局、「自分が本当に欲しいもの」を突き詰めていくと、「これを得て、こんな状態になって、こんな感覚や感情を味わいたい」という結論が出てくる。
つまり、すべては最後に、「感覚」や「感情」に行きつく。
 「感覚」「感情」は、どちらも自分自身の中にあるもの。
…ということは、自分が意識しさえすれば、ずっと、「自分が味わいたい最高の感覚、感情」はいつでも創れる。
 つまり、「本当に欲しいもの」は、すべて自給自足できる!」
 ってこと。

とはいえ、自給自足はかなり大変。もし、誰かがちょっと刺激してくれることで「幸せな感覚」をゲットできたら、その方が楽チン!
 それに、癖にしろ、習慣にしろ、自分自身が「辛い」「苦しい」という感情を選んでいることを、
「幸せになれないのは、OOがないから」
と、環境や他人のせいにした方が、自分の怠慢を見ないで済むし…。なにより、「欠乏感」はドラマチックな自分を演出できるし…。
だから、みんな「自給自足」をしたがらないのかもね。

かくいう私も、ずっと「自給自足」じゃ、疲れちゃう方。
だから、「自給自足」に疲れた時は、わざと「OOのせいだー!」と自分以外のものに責任をなすりつけて、休んじゃおーっと。

2006年3月9日
ここのところ、仕事の無い時、仕事のちょっとした合間、すべて、原稿書きにあてていたので、気がついたら休日返上状態になっていた。

仕事も原稿書きも嫌いではないが、さすがに同じことをずっとやっていると、知らないうちに煮詰まってしまっていたよう。

そこで、
「今日は、思いきって、なにもしない!」
と決めて、心の赴くままに好き勝手なことをして過ごした。とはいえ、内容的には、それほどたいそうなことはしていない。
普段あまりいかないスーパーや道をぶらぶら散歩しただけ。
でも、かなり心はすっきり。

たまには、自分自身のエネルギーチャージのために、自分の体と心に気持ちのいいことを意識的にやってみるのは、重要ね。
2006年3月1日

マンガ「ガラスの仮面」の劇中劇「紅天女」の新作能を見に行った。
 さすがに、満員御礼。客層も、能楽堂では、絶対に見られないような「マンガファンの集い」という不思議な感じ。

感想は、一言で言うと、「思った以上に、すごくよかった!!」。

装束(衣装のことね)と面の選び方もよかったし、言葉も謡いも聞き取りやすかった。プログラムや解説書には台本が掲載されているけれど、お能を少し見なれている人ならば、台本は見なくても全部わかる感じ。

なにより、何がよかったって、梅若六郎さんの演じる「紅天女」が過不足なく、本当にいい形で仕上がっていたこと!
六郎さんの底力を見た気がした!

たぶん、マンガへの思い入れや先入観があまりないのがよかったのかもしれない。
それに、もしかすると、美内さん自身が表現したかった「紅天女」を六郎さんが的確に理解できていたのかもしれない。なにしろ、今回、初めて実物の美内すずえさんを間近で拝見したのだけれど…、六郎さんと美内さん、かなり、似たようなエネルギーを持っているなあと思ったから…。

ちなみに、六郎さんの「紅天女」は、ベースになる物語そのものを純度高く極めた…という感じの演じ方。
梅の精であり、天女でもあり、しかも、天地創造の神でもあるというイメージ。お能に詳しい人に説明するなら、初番目もの(神様もの)の「強い神」のイメージを取り入れた3番目もの(鬘もの、美しい女性が出てくる話)という感じの仕上り。
しかも、実に見事に、エッセンスの部分だけシンプルに演じているので、観客に想像させる余地がたくさんあり、
「ああ、きっと、紅天女って、ほんとにこんな感じかも…」
と、多数の人が自分なりの天女像を心に描けるような、本当に親切な演じ方をしていた。

加えてすごいなと思ったのが、新作能ということで、地謡や囃子方はじめ、ほとんどの演者がとても緊張+そわそわした「気」を発している上、会場もお能を見なれていない客層だったので、「お能を味わう」という空気が全くない状態だった。にもかかわらす、六郎さんただ一人、ほとんど最初から最後まで、「お能」の空気を保っていたこと!
そのお蔭で、舞台が進むにつれて、全体が「お能」の空気に巻き込まれてきて、最後には、完全に会場全体が六郎さんの世界に同調していた。あれだけの荒れた「気」の中で、自分の中に静かな世界を保てるというのは、並大抵のことではできない。

一緒に見ていた友人は、
「六郎さんは新作能作りにも慣れているし、海外公演などで、能を見たことのない観客の相手をすることも多いから、動じないんじゃない?」
といっていた。
そうかもしれない。でも、それにしても、なかなかおいそれとできることではない。
あれだけの強さは、本当に見習いたいものだ!!本当に感心した。

また、間狂言もとてもいい仕上りだった。さすが、茂山家は新作狂言を演じ慣れているだけあって、無理のない仕上がりだ。
笑いの掴み所もとてもよく、普段はクールな顔をして存在を消すように舞台にいる地謡や囃子方の人たちまでも、笑いがこらえきれない様子だったし…。
なにより、茂山一族は、心から楽しそうに演じているところがいい!(狂言方によっては、笑いを演じていても、心の内面ではものすごく気難しい「気」を発していることがある。ああいうのは、見ていてけっこう疲れる)
 
反面、いただけなかったのは、出足の「月影千草」の役!
「マンガの主旨を説明する意味」と「美内さんに敬意を表するため」に、ナレーションのような役どころとして置いたのかもしれないが…。だったら、単なるナレーションか、司会にした方がよほど、舞台が引き立ったような気がする。
 もし、どうしても「月影千草」役を出したいなら、せめて、もうちょっと演技のうまい人にやってほしかった。

 なんたって、「月影千草」は、並ぶもののない往年の天才大女優という役どころ。立っているだけで、すべての役が表現できるだけの迫力がある女優。そういう力のある本物の女優が、あんなオーバーな演技をするわけがない! 
しかも、本編のお能と全くかけ離れたイメージのセリフの読み方!!
ほんとに、目を覆いたくなるくらい、見るに耐えないものだった。

それでも、初日の初回公演ならば、
「お能を見てないから、舞台の雰囲気とまるっきり違う役作りをしたのかも…」
と許容もできる。
でも、一回でも本編の舞台を見た後で、あんなお粗末な演技では、役者としてちょっと情けない。「自分の演技が、舞台の流れと合ってない」とわかれば、即座に演技を変えられるのが本物の役者というもの。そんな素人でもわかるような「役作りのポイント」が押さえられないような役者が、大女優「月影千草」を演じるなんて、私としては、ちょっと許しがたい…という感じ。
今度、5月にテアトル銀座で再演する時には、せめて、野際陽子さんにでも演じてもらいたいもんだ。

そして、もう一つ、「これはちょっと…」と思ったのは、物着(舞台上で装束をつけること)の後の阿古夜と一真のからみ。そして、梅ノ木を切り倒すシーン。
あれは、ちょっと生々しくって、興ざめだった。
せっかく、お能という形をとったのに、あのシーンのお蔭で、良さが半減してしまった感じ。
「お能では、できるだけシテの心情に観客の心が寄り添えるように、恋がテーマの時は、相手役を子方にする」
と聞いてはいたが、今回の舞台を見て、その手法の洗練された素晴らしさがはじめて理解できた気がする。

それから、普通のお能なら地謡は地謡座のなかに納まっているのに、今回は、舞囃子の時の様に斜めに並んで舞台に飛び出した形になっていた。
はっきりいって、これもうざったい感じ。舞台に雑味が入った様に感じた。
ついでに、演能形式からずれた謡いも、今一つ納まりが悪く感じられた。

もし、今後もあの形で演じるならば、お能という形式にこだわらず、芸大が5月にやっている「能、日舞、和楽器、美術のコラボレーション公演」のような形でやれば、もうちょっと自然な形になるのに…とも思った。

しかし、今回の舞台を見たお蔭で、お能の演能形式がいかに洗練されたものかが理解できた。また、一般的に上演されているお能が、いかに演者によって十分咀嚼された上で、演じられていたものかに気がつけたことは、収穫だった。

「紅天女」のセリフはわかりやすいようでいて、かなり奥深い。体験的に理解できていなければ、かなり薄っぺらいものになりやすい。おそらく、紅天女のセリフの本質を体験的に十分理解できた上で、謡っていたのは六郎さんだけだったんじゃないかなーと、思わされた舞台だった。

次は、ぜひ、もう少し、内容を洗練して、再演してもらいたいものだ。