ひまわり先生のひとりごと

2005年9月


2005年9月12日
今日は、ちょっと難しい(?)宗教的な話。

 商売柄、私は宗教関係の本や精神世界関係の本をよく読む。なので、その手の知識については、下手な教祖様より詳しかったりする。でも、理屈でわかっていることと,体験的に十分理解し、実践できていることには大きな違いがある。私自身,
「理屈は充分わかっているけれど,体験的には,どういうことだろうか」
と、思うことが多々ある。

そんなおり、とても興味深い本を読んだ。「I am that 私は在る」という本だ。この本を読んで、たくさんのことが腑に落ち、体験的に納得できることもたくさんあった。

この本を読んで,強く思ったことは,宗教や精神世界形の知識に明るい人たちでも、その多くは,「神仏」「真我」という概念を十分体験的には理解できてないのかもしれない・・・ということ。
多分,その原因は,「神仏(あるいは,大いなる一)」という概念について、「普遍性、永続性」という面と、「エネルギー」という面をまぜこぜに考えているからなのだと思う。

最終的に、人が辿り着く所は、「神」と呼ばれるものの中の「普遍性、永続性の真我」のように思う。それを完全に体験するためには,自分も、他人も、さらには、神仏という存在も含めて、この世のすべての執着を捨てきることだ。そうして最後に残ったものが、「普遍性,永続性の真我」というわけだ。

しかし、この「最後に残ったもの」というのは、いわゆる今までいわれてきた「神」「仏」「大いなる一」の概念とはちょっと違うかもしれない。つまり、「スーパーパワフルな力を持った存在」とか、「この世のものとも思えないくらいの快楽」とはちょっと違うかも。


どちらかというと,普通の人たちの持っている概念の中で例えると、「ゼロ」とか、「空」とか、「基準点」とか、そういうありふれた感じのするものだ。そして、「ゼロ」で「空」だから,なんでも持つことができる状態・・・といえるのだろう。

そして、すべての「基準点」でもあるからこそ、すべての人はこの「普遍性」を、どんなときも心に持っている。でも、あまりに,ありふれたものだし、常に持っているものだからこそ、あることに気がつかない。そんなパラドックスが私たち一人一人の中に眠っているのかもしれない。


そして、いわゆるいろいろな宗教で語られる「神」「仏」「大いなる一」というものは、こうした「普遍性」に、個人個人が一生をかけて目指したいと潜在的に思っている「最高の目標の形」が加わったもの・・・と、考える方がより真実に近いかもしれない。

だからこそ、「神はすべての人の中にある」。
そして、この単純なことを理解するために、たくさんの宗教があり、たくさんの人が言葉を尽くして、こうした概念を理解しようと努めてきたのかもしれない…と思う今日この頃。

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2005年9月5日
いよいよ,ひまわりも引越しXデーが近づいてきた。最初,
「引越しといっても,そんなにやることはないなー。
荷物もそんなにないし・・・」
なんて思ってたら,とんでもない!

クリニック廃業&開設届やら、移転通知やら,名刺や書類の切り替えやらと,やらなければいけない事務処理が,山のようにあることに気がついた。

でも、三人寄れば文殊の知恵・・・ではないけれど,私が抜けているところを他の人二人が補ってくれ,手分けしていろいろな事務処理を手伝ってくれる。本当にありがたい。多分,一人だったら,まともな引越しができなかっただろうなあ・・・。

引越しついでに,今までのいろいろな資料や物品のいらないものを思い切って整理した。やはり、9年近く仕事をしていると,それなりにいろいろなものが溜まってくる。と同時に,
「ああ,このくらい仕事をしたんだ―」
と、感慨もひとしおだ。

なんだか,人生の大きな一区切りの波の中にいるような気が,ひしひしとしてくる今日この頃。