ひまわり先生のひとりごと

2005年6月


2005年6月27日
横浜にある某老人保健施設は、山と畑に囲まれている。耳を澄ませると、竹林を渡ってくる風の音、竹のふれあうカラカラという音色が響き渡り、ここが都会であることを忘れさせてくれる。
 「ああ、竹林って、こんなに素敵な歌を奏でるものだったんだなー」
と、感動した。

 そんな素敵なバックミュージックの流れる中、目の前では、
「絶対に、私は意見を譲らない!そっちが変わるべきだ!」
 と、お互いに主張し合っていがみ合ったり、明らかに当面解決のつかない問題について、何時間も、
「あーでもない。こーでもない。一体どうしたらいいんだろう」
と、グルグル堂堂巡りで悩み苦しむ・・・という、なんとも大変な人間模様が展開しつづけていた。

「自然の風景」と「人々の堂堂巡り」の両方を眺めながら、
「人生って、こういう部分が大きいかも…。
どうあがいても、「今は解決しない問題」って、ある。
ならば、とりあえず、問題は横において、美しい自然に目と耳を傾ければ、「今」という時間を楽に過ごせるのにねー。
なんだって、わざわざ、ずっと「悩み」の中に引きこもってるんだろうな。
これって、もしかすると、究極の暇つぶしだったりもする場合もあるなー」
などと、感じてしまった。

「私は問題解決に向けて、毎日こんなにも努力している!」
と実感するには、日々悩み事と向き合うのが一番いいだろう。
でも、悩むことに本気で疲れたならば、
「解決がつかない問題は、解決する時期まで、しばし、保留にする勇気」
を持つことも大事なようにも思う。
そして、しばし、周りにある木々、空、花などに目を向けてみるも一つだ。
 
ところで、昔の人たちは、テレビやラジオがなかった分、自然の織り成す一期一会の音楽を楽しんでいたようだ。お能の「経正」という曲には、昔の人々が、こうした自然の美しい音色を、楽器を使って表現することを楽しんだ様子が描かれている。

 現代でも、時々、こうした自然を感じさせる舞台に出会うことができる。全身がオーケストラのような踊りをするフラメンコダンサー。打楽器だけで、風や水の流れを表現できる演奏家。お能ではうちの師匠をはじめ、何人かの方の舞台を見ていると、自然の風景が見えてくる。

 こうした「自然」を感じさせる舞台を見ていると、 
「人間の生の感情を、忠実にリアルに表現する舞台もいいけれど、究極の舞台というのは、
 実は、「自然」を表現することなのかなあ・・・。
そして、人間の中に眠っている光り輝くような部分もまた、「自然の風景」に近いものなのかもしれないなー」
と思う今日この頃。

2005年6月20日
ひまわりのお休み中に、屋久島に行って来た。
仕事のことも、日々の生活のことも、しばし、全くなにも考えずに数日を過ごした。

なにも考えず、ただ、何千年も変わらずに続いている苔生す太古の森の中で過ごしていると、時間の感覚が全くなくなって、自分が樹の一部になったような錯覚にとらわれた。

樹齢何千年もの樹から見れば、森にやってくる人間の一生も、森を飛んでいる虫の一生も変わりはない。また、大きく育った杉の樹は誰かに切られてしまっても、すぐまた、その上に新しい樹が生えて、普通に育った樹よりも複雑で、美しい杉になる。

そんな自然の力強い姿を見ていると、
「人生というものは、ほんの些細な流れの一部なのかもしれない。
もし、魂が永遠ならば、何度も何度も生まれ変わる中で、躓いたり、こけたり、間違いをたくさんしながら、ゆっくりゆっくり、自分の道を歩いていけばいいのだろう。
太古の時間の流れとか、神という大きな目から見たら、実は、どんな出来事でも、失われるものも、傷つくものもなにもなく、ただ「経験」というものだけが残る。
ならば、人は、「不安」「恐怖」「心配」をなに一つ持つ必要はない」
と、理屈抜きで、心が納得できた気がする。

屋久島から帰ってきて、しばらくして、北海道の親友から、
「Tさんが亡くなったよ」
と、知らせを受けた。北海道時代に、よく遊んだ仲間の一人で、自分は身を粉にしても、周りに尽くし、いつも笑顔を絶やさない人だった。
亡くなったTさんのことを考えているうちに、ふと気がついたことがある。

この十数年で、私はかなり自分自身のことを大切にできるようになったけれど、一番真の芯の部分では、自分よりも周りの人の幸せを優先していたかもしれない。どこかで、
「周りの人が不幸になるくらいなら、自分が犠牲になったほうがいい。自分は犠牲になっても、周りの人には一人でも幸せになって欲しい」
と、殉教者精神を発揮していた。

でも、これって、裏返せば、「自分が周りの人の幸せをコントロールしている」という「過剰な思いこみ」でもある。
幸せは、一人一人の心の中にあるのだから、その人自身が決めることで、周りでコントロールできることではない。

「誰かが幸せになることで、誰かが不幸になる」という関係があるなら、「不幸になる人は自分の幸せを相手に依存していた」というだけのこと。その人が、「自分の幸せ」を周りの人の態度や環境に依存していなければ、不幸にはならない。
また、自分が不幸だと感じるなら、「この生き方には問題があるよ。修正が必要だね」ということに過ぎない。

・・・とは、頭ではわかっていても、どこかで、殉教者的な生き方を捨てきれずにいたような気がする。でも、もう、そういうストイックな人生シナリオはやめて、
「自分が最高に幸せに過ごして、自分から溢れ出す幸せで、周りにも幸せをお裾分けしよう」という生き方に変更していこう。

魂が永遠に生きつづけているなら、きっと、Tさんともまたどこか出会えるだろう。その時に、「あれから、こんな風に楽しく生きてきたよ」と、報告したいものだ。
2005年6月13日
この間、「松風」というお能を見ていて、「目から鱗…」の発見をした。

ちなみに、「松風」とはこんなストーリー。
「在原行平(有名な業平の兄さん)が赴任先で、松風という娘と恋仲になる。任期を終え、都に戻ることになった行平は、「必ず迎えに来るから」と言い残して帰ってしまう。戻ってこない行平を待ちつづけるうちに松風は死んでしまう。でも、執心が残ったため幽霊として現れるが、旅の僧に弔ってもらい成仏する」

私が松風を演じるなら、思いっきりお涙頂戴で、
「(涙でうるうるしながら)私…絶対、いつまでだって、待ってる…!だって、こんっっなにも、信じてるもん。信じることが、私の愛の証よ!(うるうる)」
というような「健気に信じまくる性格」にしたてるところだ。

ところが、この日の「松風」さんは、とても真っ直ぐ一途。
「え?何言ってるの?行平さんは、もちろん、帰ってくるわよ。当然じゃない!
 だから、私はここで、待ってるのよ」
と、微塵も、行平の言葉を疑ってない!!

「なるほど、こういう解釈もありだなー。私には絶対、思いつかないパターンだ!!」
と、えらく感動した。・・・と同時に、はっと気づかされた。

この辺の心持が、「人間関係、特に恋愛で、失敗するか否か」の分かれ目だ!!
「自分の思いが自分の未来を創る」という言葉があるが、実は、こうした何気ないやり取りの中に隠されている「潜在意識」が実現されているのだ!

例えば、行平さんが帰ってしまう時に、松風さんが、
「帰ってくるって本当?嘘じゃないの?あ、ほら、今、鼻の穴が大きくなった!
 あなたってば、嘘をつくとき、鼻の穴が大きくなるのよねっ!
 嘘じゃないなら、どうして、一緒についていっちゃいけないのよ―!!」
と騒ぐ女性の場合。

こうした女性の潜在意識には、
「男は信用できない。私は裏切られるかもしれない」
という思いが隠れている。そのため、その潜在意識にピッタリ当てはまるように見える相手の行動を見つけて(つまり、一見「裏切り」のような行動)、相手を責めたてるようになる。
何度も、そういうことを繰り返しているうちに、相手は裏切るつもりがなければないほど、「信じてもらえないこと」や「責められること」にうんざりするようになる。また、女性の「きっと裏切るんだ」という暗示にかかって、「自分はやっぱり、この人とはうまくいかないのかも」と、思いこんでしまうことも・・・。その結果、「女性の潜在意識の通りに、「捨てられる」という状況」に陥る・・・というわけだ。

また、私が演じたいと思っていた、健気で待ちつづける「松風」さんは、一見、行平への愛一筋に見えるかもしれない。でも、潜在意識の中では、
「どんな状況でも待てるほど、愛が深いのよ。私の愛が、どんなに深いか、証明しなくっちゃ。こんな状況でも、行平様の言葉を信じてるなんて、私ってすごいかも」
と、「愛の深さを証明すること」に夢中になっているか、「悲劇のヒロイン的状況に酔っている」部分があったりする。

こういう愛を示すと、相手は「愛が重すぎて辛い」と去って行くか、「どんなに僕がわがまま言っても、絶対、愛しつづけてくれるんだよね!証明してよね」と、わがままを言いまくって振り回すか・・・という行動をとりがちだ。
そして、「愛の深さを証明できる程、苦労する」もしくは、「悲劇のヒロインになれる」という状況が、実現されてしまうわけだ。

こんな風に考えていくと、先日のお能で見た「松風」さんは、最後、ハッピーエンドで終わるんじゃないかなー、と思わせられた。
あれだけ素直に一途に、真っ直ぐに、
「うん!待ってればいいのね。わかった!待ってるね♪」
といわれたら、裏切れないでしょう。最初、いい加減な口約束のつもりで切り出しても、松風さんの性格のよさとかわいさで、ほんとに戻ってくるんじゃないかなー。こんないい子を裏切ったら、自分がすっごい悪いやつになってしまいそうだもの…。

やっぱり、
「信じて、微塵も疑わない。「疑う」ということ、そのものを知らない」
 というくらい、素直で純粋な性格は、得だ!絶対、「信じている通りの状況」が、実現するに違いない。

 きっと、あの舞台の松風さんは、お坊さんのお蔭で成仏した後、浄土で行平さんと巡り会えたに違いない。浄土で待っていた行平さんが、走りよってきて、
 「松風ちゃん、どこにいたんだよー!こっちの世界にきたら、会えると思って、楽しみにして、きたのにー!どこにも君がいないから、心配しちゃったよー。
 全く、君は律儀なんだからー。ずっと、あの場所で待ってたんだねー」
とかいって、感動の再会をしてるんじゃないかなー。

 この話じゃないけれど、「思いは実現する」。
 でも、表面的に見えている思いが実現するわけじゃない。
 「絶対、あの人は帰ってくる」
と、口ではいいながら、潜在意識で、
「やっぱり裏切られるんじゃないか」
「捨てられるんじゃないか」
「いつまででも、待ちつづけます」
とか、思っていると、そちらの方が実現されてしまうので、ご注意を!

人間、素直なのが、やっぱり一番だねー。