ひまわり先生のひとりごと

2005年2月


2005年2月21日
今年は、いつになく、周りでインフルエンザで倒れる人が多かった。とくに、先々週から先週にかけてはピークで、そんなに多くない私の親しい交友関係でも十数人が倒れて動けなくなっており、非常勤先の病院でも4人の医師が倒れていた。

ところで、熱が出るのは、体の中に溜まったエネルギーの汚れを浄化する働きもあるとか。そういえば、なんだか世間全体が浄化の流れがやってきているのか、病院に来る人はもちろん、街を歩いている人たちも、「気」だか、「波長」だかが相当乱れているような感じだった。

こういうときは、敏感な人ほど、できるだけ自分自身のメインテナンスをして、状態を整えておかないと、相手の「気」に巻き込まれやすい。

私なども、カウンセリングという仕事をするときには、一度、相手の「気」に完全に同調してから、浄化体制に入るので、相手の「気」をもらいやすい。なので、相当気をつけていたつもりだったのだが、いかんせん、私の処理能力を上回る浄化量だったらしく、週末にはギブアップ。


まあ、無理すれば、動けないこともない状態だったのだけれど、ここでがんばってしまうと、絶対に、「インフルエンザにかかるコース」に乗ってしまうと、確信したので、しっかり、引きこもりを決めこんだ。


昔は、「倒れるまで動く」という生活だったが、「倒れる前に、休む」が少しは身についてきたみたい。やはり、転ばぬ先の杖が、何事も肝心だ。


2005年2月14日
弟一家がニューヨークに転勤になったため、この一週間は引越しやら、出発準備やらで、何かとバタバタした。
そんな中で、いろいろ考えさせられることがあった。

弟は長男で末っ子なので、必要なことは何でも自力でやる一方で、頼り上手だ。だから、空港までの道中でも、電車のホームや出発ゲートがわからなかったら、さっさと係員に聞くし、荷物が多ければ、周りの人に遠慮なく手伝ってもらう。
ニューヨークでも、知り合ったばかりの近所の優しい日本人の老夫婦に空港まで迎えにきてもらう段取りをつけてきたのだとか・・・。

 私の場合、どうしても子供の頃から、
「なんでも、自分でやりなさい。やろうと思えば、なんだって自力でできるはず。人にやってもらうことばかり考えるのは、あなたが怠け者だから」
 と、厳しくしつけられてきたせいか、どうしても、できる限り自力でがんばりにがんばってしまいがちだ。
それでも、昔よりは頼り上手になったものの、まだまだ、ギブアップ寸前になってから、助けを求めることが多いかもしれない。
彼のように早いうちから、上手に、手助けしてもらうと、人生ってなんてスムーズなんだろう、としみじみ感動した。

頼り上手な人から見れば、世の中には、至るところに助けの手はあるのだろう。心が頑固になって、あまりにも、意固地にがんばりすぎると、楽に生きる道を見過ごしてしまうかも・・・と、痛感。

でも、いろいろな自己啓発本や宗教の本などには、
「人から何かを注いでもらうことよりも、人に何かを注ぐことに専念しなさい」
と書いてあるので、がんばり屋ほど、こういう本を読むと、
「まだまだ、奉仕が足りない」
と思ってしまいがちだ。

でも、もともと、自分のことより人のことばかり考えて、人に尽くしてしまうタイプの人間は、どちらかというと、
「人に頼ることで、人に奉仕すること」
を学ぶ必要があるかも・・・と思った一週間だった。

2005年2月7日
「神は世の中で、唯一の幸せな存在だった。でも、唯一で、幸せだったから、「一つであること。幸せであること。神とは何か」がわからなかった。
神は自分を知りたいと思った。
そのため、天国と地上、神と人に分けた。
こうして、分離ができ、不幸ができ、神は「一つ。幸せ」を知ることができた」

いろいろな本や言い伝えなどの中によく登場する話である。このため、人は、「神」にあこがれ、「悟り」を求めて生きるのだとか・・・。
 ちなみに、お能ではこれに近い話に、「石橋(しゃっきょう)」という曲がある。ストーリーはこんな感じ。

「文殊の浄土につながっている橋を僧が渡ろうとすると、橋の門番から止められる。
「この橋は、苔がびっしり生えて滑りやすく、上からは大滝が落ちてくる。転げ落ちると下は千尋の谷。よほどの難行苦行を重ねた僧でなければ渡れない」
というのだ。そこで、僧は渡ることをあきらめた。すると、門番は、
「少しだけ、浄土の様子を見せてあげよう」
といって、獅子に変身して、浄土の美しい獅子舞を見せてくれた」

この話を聴いた私は、
「えー!獅子舞を見せてもらったくらいで、ごまかされてていいのかー!?
 根性なしの坊さんだなー。素敵な浄土の様子を見せてもらったなら、なおさら、がんばって修行して渡れよー。
 門番に脅されたくらいで、ビビってるから、渡れないんだよー。
 滝や苔や谷みたいな目の前の恐怖に心を揺るがされず、心眼でしっかり浄土を見据えて、一歩一歩を確実に踏みしめるように歩いていけば、渡れるじゃない!
 万が一、谷に落ちて死んだら、死後の世界は想念の世界なんだから、「私は浄土に行く途中だった」って思い出せば、行けるじゃないのっ!根性なし!!」
 と、息巻いていたのだけれど・・・(こんな話を師匠にしたら、また、目を白黒されそう・・・)。

 でも、よくよく考えてみたら、「石橋」を渡らないという選択もありかもしれない・・・と、最近思う。
 確かに、私自身は「生きながらにして、天国に住むとはどういうことか」ということに興味があったので、「石橋」を渡るような人生を歩いてきた。また、そうした人生がとても価値のあることのようにも思っていた。でも、それは単に、私の「人生の好み」だったのかもしれない。

 たとえば、知的障害を持った子供や痴呆にかかった人を見ていると、「神」とか「悟り」とかとは、全く無縁で、ただ「100%の今の自分自身」「ありのままの自分」を生きている。そういう姿を見ていると、
「もしかすると、こうした人々が一番、「神」や「悟り」に近いのかもしれない」
と感じるのだ。
 
 難行苦行をして、「石橋」を渡ることは、一見立派に見える。
けれど、もしかすると、
「ちゃんと生きていれば、死んだらちゃんと浄土にいける。
 だから、生きている間は、浄土のことなんて気にしないで、端のこちら側の世界をしっかり堪能して、生きていこう」
 という人生だって、とても立派なのではないだろうか。

 「石橋」というストーリーにも、「人生」にも、「こうするのが正解」という答えはない。ただ、「生きている(橋のこちら側にいる)」という事実があるだけだ。
 苦労して橋を渡るもよし。橋のたもとにずっといるのもよし。橋も浄土も知らずに生きるもよし。あるいは、好き勝手をして地獄を目指すのもよし?!

 なんにせよ、自分らしい選択ができるといいよね。