ひまわり先生のひとりごと

2004年6月


2004年6月28日
取材にこられた記者さんなどからは、
 「たくさんの人の悩み事ばかり聞くなんて、大変なお仕事ですよねー」
とよく言われる。
でも、私は好きでこの仕事をしているので、そんなに大変だと思っていない。
なにしろ、「人が楽しそうにしていたり、元気になったりする姿を見るのが、何より好き」なので、仕事は生活の張りであり、趣味でもある。

むしろ、私の場合、かえって、「自分だけが楽しむ生活」をしていると、ストレスが溜まって仕方がない。
だから、本当に、いい仕事にめぐり合えてよかったと思っている。

ただ、時には、骨身を削りすぎて仕事をしてしまうこともある。親身になりすぎるあまり、私自身、
 「この人をなんとかしてあげたい!」
と、思いすぎてしまう時が、実は曲者だ。

実は、私に限らず、医療職についている人の多くは、来院された方がどんどん元気になられると、自分自身が治しているような錯覚に陥ってしまいやすいものだ。
でも、本当は、病気や悩み事が治るのは、本人の努力に他ならない。本人の気持の切り替えと、適切な努力が、治癒に結びつく。医者やカウンセラーは、あくまでも、サポート役に過ぎない。

ところが、患者さんによっては治りたいあまり、必死になって、
「もっともっと、治して欲しい!このくらい、やってくれて当然」
と、治す力を医療者に求めてくることがある。その必死の勢いに押されて、知らないうちに、医療者のほうも、
「自分がもっと努力すれば治るんじゃないか。私の努力が足りないのでは?」
と、思い込んでしまうことがある。

そうすると、患者さんも医療者も努力しているのに、結果として治らない方向にどんどん行ってしまう…ということが、医療の現場では少なくない。

 「治す力は、自分の「外」に求めない。「外」からの援助を受けて、自分の中に、中にと、力を求めること」
 この大原則をはずしてしまうと、治る病気も治らなくなる。

私自身も、ともすると、その罠にはまってしまいがちになる。だから、折にふれて、
 「治す力は本人の中にある…と信じて、本人がちゃんと自分を振り返るようにアドバイスできているかな」
 と、自問自答することにしている。

それでも、私も人間だから、時々は、勢いに飲まれて、「本人しか、どうにもできないこと」を「他人である私が、どうにかできる」つもりになって、無理をして、エネルギー不足になってしまうときがある。
 
そんなときには、できるだけ意識して、自分の心のメインテナンスをして、エネルギー回復に努めている。

私の場合、エネルギー充電方法は、
「自分の好きなマンガを大量に買い込んで読む」
「買い物をする」
「おいしい食事をする」
「仲のいい友人や、妹弟と話をする(メールをする)」
などなど。

いずれも、「なーんだ」と思うような内容だけれど、できるだけ意識的に、
「今日は、私はエネルギー不足だから、私自身にエネルギーを補充するために、おいしい食事をプレゼントするの。本をプレゼントするの。会話をプレゼントするの」
と、言い聞かせながら行動するようにしている。

実は、これを意識せずに、「ストレス発散―――!!!」と、エネルギーの赴くままに、動いてしまうと、度が過ぎてしまう。
「度が過ぎた状態」というのは、いわゆる「過食症」「買い物依存症」「メール依存症」というわけだ。

ちなみに、依存症になりつつある人は、
「こんなに、食べてばっかりいてはいけない!」
と、自分を責めながら食事をしたりするのではなく、
「私は最近、とってもがんばっていたから、ご褒美に、おいしいものを自分にプレゼントしよう」
と、一つ一つ、自分にプレゼントをするように、行動するといいですよ。

2004年6月21日
私は、時々、周期的に、とても感覚が敏感になる期間がある。こういう時期は、
「黙って座ればぴたりと当たる・・・」
ではないが、相手を見ただけで、いろいろなことが読める一方、周りに転がっている負の影響ももらいやすい。
なので、こういう時期は、務めて心のメインテナンスを心掛けるようにしている。

ちなみに、「急に敏感になる」というのは、大げさに例えていうと、それまで、普通に過ごしていた人が、ある日突然、霊が見えるようになる…という感じに似ているかもしれない。こういう経験をした人は、見慣れた日常が、突然恐ろしいものに感じられて、
「うわー、世の中には、こんなに霊がうようよ存在したのかー!!怖くって、外に出られないよー!」

と、パニックを起こしやすいものだ。(ちなみに、私自身は、霊も、オーラも見えません。「感じる」ことはありますが…)


でも、急に、いろいろなものが見えたり、感じられたりするようになったからといって、実は、世の中は昨日までと全く変わりはないわけで・・・。
きれいな花は咲いているし、新緑は目に鮮やかだし、空は青々として澄んでいる・・・。

ところが、敏感になった直後というのは、いいことではなく、悪いこと、怖いことに目が向きやすい。なぜなら、いいことよりも、悪いことの方が刺激が強くて、印象に残りやすいからだ。そのため、敏感になればなるほど、負の影響の方を強くうけることになる。

だから、敏感になっているときほど、自分のメインテナンスをしっかりして、
「世の中、悪いものといいものが混在している。自分がどっちを見るかで、世界の見え方が変わってくる」
と、自分に言い聞かせ、
「自分の見たいものを見、見たくないものは注目しない」
ように、心をしっかりコントロールしていく強い意思が必要になる。

つまり、先ほどの例でいえば、
「霊は今までも、身のまわりにいたんだ。とりあえず、なるべく見ないようにしよう。そして、いつも見ている花や、緑、空の美しさを見るようにしよう」
と、努力すること・・・が、「心のコントロール法」になる。

ところが、子供の頃から敏感な人の多くは、こういう原理を知らずに育つために、知らないうちに、「負の影響」を全身に浴びて、マイナスのものばかりを見る癖がついてしまう。
また、心のコントロール法を学んでいても、たいがいは、
「他人とうまく合わせるために、自分の心をコントロールするように」
と教えられる。
そのため、「なんで、人の幸せのために、自分が我慢しなきゃいけないんだ」という思いが心の奥底に沈殿して、ある時、大きな爆発を起こすことにもなりかねない。

でも、本当は、「心のコントロール」は、他人のために行うのではなく、自分自身の幸せのためにするものだ。

他の人と仲良く過ごせたら、自分自身が気持ちがいい。そのために、自分の心をTPOに合わせて、押したり引いたり、自由自在にできるように調整できるようになることが大切だ。


そして、「心のコントロール」のために欠かせないのは、
「何にも影響されてないニュートラルで、真っ白な自分の心の感覚」
がどういうものかを知っていること・・・だ。

人は、多かれ少なかれ、他人といるときには、他人の固有のエネルギーの影響を受けている。敏感な人ほど、「怒りのエネルギー」を持っている人のそばにいると、自分が怒っているのか、相手が怒っている影響を受けてイライラしているのかが、わからなくなりやすい。

なので、敏感な人ほど、毎朝、必ず、自分の心の状態をチェックして、
「私は一人でいるときの心は、こんな感覚なんだ」
と、掴んでおくといい。さらに、
「こんな素敵な気分で毎日過ごしたいなー」
と目標となる感覚があるならば、一日に何度も何度も、その感覚を心の中に再現する練習をすることだ。そうすることで、「いい気分」で過ごせる時間も増え、同じ様な「いい気分のもの」に目が行きやすくなるので、生活の中にいいことが増えるようになる。

また、こうした「感覚」という概念がわかりにくい人は、「自分が一番心地よく感じられる象徴的な情景」を思い浮かべるといい。

例えば、
「雨に潤う七色のアジサイの花」
「常夏の海辺の風景」
「雪で、真っ白におおいつくされた一面の銀世界」
などなど…

人によって、「心の安らぎ」を感じる原風景は違っている。そうしたものを、毎日、1−2時間に1度でも思い浮かべることによって、心の平安、そして、日々の生活の平安に近づきやすくなるものだ。

興味がある方は、お試しください。

2004年6月14日
最近、テレビドラマを別の角度から楽しむわざ(?)をおぼえた。

 ドラマの重要な場面で、
「もし、この主人公が別の選択をしたら、この後の展開はどうなるか」
とか、
 「ここでこの先の人生をややこしいことにしないためには、どういう対策をとるといいか」
 とか、
 「相手と、もっといい形の会話をつなげるには、ここではどういう受け答えをするとよいのか」
 などなど、考えてみる。

すると、たいがい、話がややこしくなるときには、
 「自分の価値観(意見)を主張している(相手の価値観が受け入れられない)」
「目先の幸せ(安定)に目がくらんで、本当の問題から目をそらしている」
「自分の気持ちを不自然に押し殺している」
「自分自身が責任をとるべき人生の問題を、人のせいにしている」
「執着心が捨てられない」
 などなどがあることがわかる。

 うーん、ドラマ一つでも、カウンセリングや人生のいい勉強になる。

 自分の人生も、ドラマみたいに遠目で見ながら、自分にしっかりアドバイスできたら、もっと楽に過ごせそうなんだけどなあ!

2004年6月7日
子供が加害者の殺人事件を見るたび、とても胸が痛む。

殺された被害者はもちろんかわいそうだが、「実は、一番かわいそうなのは殺してしまった加害者だ」ということに、気がついている大人はどのくらいいるのだろう。

人は教わらないことは、行動することはできない。
人を殺してしまう人の周りには、「殺すことを教えてしまった誰か」が必ず存在する。そして、人を殺してしまう人は、「社会から心を殺され続けてきた人」でもある。

実は、人間は、知らず知らずのうち、悪意のあるなしにもかかわらず、ささいなことで、人の心を殺してしまうことがある。

たとえば、「あなたは体育は得意だけど、勉強は人並み以下ね。それじゃダメよ」
「そんなことをしていると、Aちゃんみたいな乱暴者の悪い子になっちゃうわよ」
などと、他人と比較することで、敏感な子供は、
「今のままの私自身には価値がない」
と、思い込んでしまう。

また、子供がテレビゲームに熱中しているときに、親が
 「何、ゲームばかりやっているのよ!そんな暇があったら、勉強しなさい!」
 と、いきなりテレビの電源をぶっちぎってしまったとする。
もし、そのゲームがペットや人を育てるゲームだったとしたら、その親は、
「一つの命を殺した」ことになるのだ。

そこで子供が、「かわいいピーちゃんを育てていたのに、お母さん、ひどい!」
と抗議したときに、さらに親が、
「また、暇なときに育てればいいじゃないの!それより、子供の仕事は勉強よ!」
と答えたとする。

すると、その子は、「ゲームの中の小さな命より、勉強の方が大事」と、暗に学んでしまうのだ。

こうして、子供は、「立派で頭のいい優秀なかわいい子供しか生きていてはいけない。そうでない人間は、社会の役立たず」と思い込む。「ありのままの自分の心」がどんどん殺されて行くのだ。

そして、時として苦しさのあまり、暴力行動に出ることになる。
でも、ほとんどの場合、暴力行為を働いた人間の心の奥底にまで、世間が理解を示すことはない。大概、理解されず、さらには、「極悪人」のレッテルを貼られたまま、一生敬遠されて、その人はさらに深い心の傷を残していくのである。

更なる被害者を出さないためにも、必要なことは、非難ではない。強制ではない。形ばかりの命の教育でもない。
愛情を込めて、日々の生活の中から、ありのままのその子自身の価値を認め、その子自身の命(心)を大切にしていく愛情だ。
そのためには、家庭の中で一人一人が、お互いに愛情を込めて生活することが大切だろう。

ところで、週末、我が家にも、弟夫婦のおちびさんが遊びにきた。

子供は言葉を学ぶより前に、大人の心と感情を学ぶ様子を目の当たりにした。
大人が穏やかな感情を持てば、子供も穏やかに過ごす。大人がイライラすれば、子供もそれに反応して、かんしゃくを起こす。こうして、子供たちはたくさんのことを、日々の中で敏感に学習し、自分のものにするのだろう。

子供を優しい子に育てたかったら、変えるのは子供ではない。大人自身の対応だ。

未来の子供たちの幸せのためにも、まず大人自身が心を引き締めて、自分の心を磨くことが、第一だと思う今日この頃。