ひまわり先生のひとりごと

2004年4月


2004年4月26日
予知夢?…境界線パート2


朝、二階から降りてきたら、玄関先のルナ子の「お休みスペース」に当の本人がいない。

「あ…また、あやつは、性懲りもなく、リビングのソファで寝ているなー。ソファには、乗るなって、厳しく言ってあるのにっ!」
と、リビングに向かって歩いていったら、案の定、パタン!と、ソファから飛び降りる音がする。

リビングの扉を空けると、そこには、気持ちよさそうに伸びをするルナ子の姿。
「おはようっ♪気持ちのいい朝ですねー。ルナ子、言い付けを守って、ソファには乗ってなかったよー」
とでもいいたげな顔をして、尻尾をフリフリ挨拶をする。

「…まったく…。現場を捉えてないから、怒れないじゃないのさ!それに、それだけ愛想を振り撒かれたら、さすがに怒れないわよねー…」
と、ぶつぶつつぶやきながら、何気なーく、ソファに目をやったら…。

「げ…!!」

そこには、私のお気に入りの白いコートが、まるで、「ルナじいの着古した下着」かと見まごうばかりに茶色く汚れて、無残なまでにぐちゃぐちゃに丸まっていた!!おまけに、ご丁寧に、黒い肉球マークまでついている!

どうやら、昨晩遅くに帰ってきた私は、コートをタンスにしまわずにソファの上に放り出したままにしていたらしい。で、ルナ子はちゃっかり、私のコートを敷物代わりにしてソファの上で寝ていた…というわけだ。

ルナ子「昨日今日は、夜になるとめっきり冷えこんでいるから、コートがあるとあったかいわー♪ 
純子姉に「いい子いい子」してもらいながら、寝てる気分―。ルナ子幸せっ♪」
って、感じ?

すっごく悔しかったけど、悪びれなく嬉しそうに尻尾を振っているルナ子を見たら、怒れなくなった。

「もとはといえば、コートを片付けなかった私が悪いんだから、ルナ子を怒るのは筋違いよね…・。ううっ。でもでも、私のいっちょうらのコートなのにっ!」

と、地団太踏んでしまった。

そういえば、今朝、コートにまつわるちょっとばかりいい夢を見て、幸せ気分で目が覚めたんだった。

「彼と楽しくデートをしていたら、急に雨が降ってきた。
でも、二人とも傘を持っていなかったので、彼のトレンチコートが急遽、傘代わり。
『こんな相合傘ができるなら、にわか雨も、嬉しいかも…♪ 雨さんありがとう♪』
なんて、笑い合っている…」
 という夢だ。
 
これって、予知夢? 実は、コートの相合傘の相手は、「彼」ではなく「ルナ子」で、「自分のコートでルナ子と相合傘」って感じ?
通りで、「彼」の顔があまりはっきりしてなかったわけだ…。

ルナ子の大ばかものー!

みなさんも、酔っ払って帰ってきても、大切なものは面倒臭がらずに、ちゃんとしまっておきましょうねー。

2004年4月19日
先日、非常勤先の病院で、
「患者さんをナースステーションに入れることは、是か非か」
という話し合いに参加した。

普通の病棟のナースステーションであれば、迷わず「立ち入り禁止」になるのだろう。唯一の例外は、痴呆などで徘徊してしまう患者さんや、不安が強くて、ナースコール頻回の患者さんなどに対して、看護師さんの方から措置的に立ち入りを認めるケースだ。

でも、ホスピスや老人保健施設など、生活中心の施設の場合、入所者との交流を深めるために、立ち入りを自由にすることも少なくない。
 しかし、そうなると、「カルテを入所者に見られてもいいのか?」「入所者に対するケアプランの話し合いなどを聞かれてもいいのか?」などのプライバシー保護の問題が出てくる。
また、「Aさんはカルテを覗かないし、話し合いに耳を傾けないから、入ってもいい。でも、Bさんは、話し合いを聞いているからダメ」
などと、はっきりしない基準で、ステーションに入れる人とそうでない人を決めてしまうと、入所者の間で混乱を招きかねない。

そうしたもろもろの問題すべてに対して、責任ある対応をする覚悟があれば、出入りを自由にすることのメリットは大きいのではないかと思う。

しかし、スタッフの大多数に、そうした細やかな配慮をするだけの余裕がないときに、
「ステーションにいると、入所者はとってもうれしそうにしているから」
という理由だけで、安易に許可してしまうと、あとあと混乱を招いてしまうことにもなり兼ねない。

 であれば、最初から、「ここからは、入室禁止」とした方が、お互いわかりやすいし、納得しやすいものだ。

実はこうした問題は、普段の生活にも通じる。

一番簡単な話は、
「分別のつかない子供が自由に出入りする部屋に、家宝の茶碗を無造作に置いて、割られてしまった場合」
これは、割った子供より、そういう危機管理をしていた大人に問題がある。

 こうした時、
「だって、子供にも、「大切なものなのよ」と話してあったし、子供もこの茶碗は気にいっていたから…」
というのは、大人の言い訳でしかない。
割られる可能性がとても大きいことを知って、なおかつ、そこに置いたのなら、割られた時の責任は、置いた人にもある。

子供の特性を考えたなら、余裕のある大人の方(大切なものを持っている人自身)が、しっかり、大切なもの守る方法を考える必要がある。

「境界線」というのは、「自分」と「他人」の領域を区別するラインだ。また、
「ここまでは自分が責任もちます。この先は、私は責任を負いかねます」
というラインでもある。
実は、生活の中で、物理的にも、心理的にも、このラインをはっきりさせていないために、混乱を招いていることは少なくない。

たとえば、相手の人が、
「これは、私が自分でやりますので、お気遣いは無用です」
といっているときに、
「でも、あなたのやり方だと、こういう点、ああいう点が失敗しやすいのよ!こういうときには、先輩の意見を聞いて、こうすべきよ」
と、相手のやり方に介入する言い方をすると、相手の引いた「境界線」を無理やり越えてしまったことになる。
すると、「余計なおせっかいよ」と、相手の気分を害することになりかねない。

でも、同じ注意をするのでも、
「私も以前同じ仕事をやったけど、この点、あの点を失敗したから、気をつけてね」
とアドバイスはしても、選択する自由は相手に任せるようにすると、「境界線」を越えたことにはならない。

さらに、もっと敏感な人の場合、相手と自分の感情の「境界線」がわからなくなっているケースが多々ある。

たとえば、会議などに参加しているとき、「イライラ怒鳴り散らしている参加者」がいるだけで、自分も、イライラした気分になったり、不安に駆られたりしたことはないだろうか?
そうした時、「トイレに抜けたらば、それだけで、すごくほっとした」という経験をしたことがあれば、それはまさしく、相手のイライラの感情に巻き込まれている。

これは、例えていうと、ある音叉を鳴らすと、近くにある同じ周波数の音叉が、一斉になり始めてしまうのと同じ現象だ。

こうした敏感なタイプの人は、まず、「これは自分の感情か、相手の感情に巻き込まれているだけなのか」を区別できるようになることから、はじめるといい。

 たとえば、「もしかして、相手の感情に巻き込まれている?」
と思ったときには、必ず、その相手から離れて、一人になってみること。
一人になって、落ち着くなら、それは、あなた自身が引き起こした感情ではない。

ちなみに、こうした敏感なタイプの人は、
「怒鳴る人だって、怒鳴るわけがあると思うの。だから、そうした感情も受け止められるようにならなくっちゃ…。この人を理解できるのは、私だけだと思うから。
絶対、この状況から、逃げちゃダメ!」
などと、がんばらないことが肝心だ。
 ちなみに、こうした考え方を持っている人は、パートナーが虐待、依存症などになりやすい。

こうしたケースの場合、矛盾しているように思えるが、しっかり、相手に巻き込まれない安全な距離に離れて、「これは相手の感情。私の感情はこっち」と、区別することができるようになって、初めて、「苦手な感情、苦手な相手」を克服することができるようになる。

 例えて言えば、目の前で、自分のことをガミガミ怒鳴る人は受け入れにくいけれど、映画の中の怒っているキャラクターは簡単に愛せるようになる…という感じだろうか

人は、「安全な自分の領域」というものがしっかり確保できたときに、初めて、自分と同じように人を深く愛せるようになるものだ。
自分のことを十分に愛せない人の愛情は、脆く、ときに、押し付けととられやすい。それに、自分のことを深く愛せたときには、「人を愛そう」と無理をしなくても、自然に(かってに)、愛せるようになるものだ。

ところが、今の世の中、
「自分は犠牲にしても、他の人を愛さねばならない」
ということを強いる風潮がある。こういうことをしていると、
「いつも、自分が後回し」という気持ちが、心の奥底に澱のようにたまって、ある日、爆発して自分を追い詰めたくなったりしかねない。

「自分と同じように、隣人を愛せよ」
という言葉は、実は、
「まず、自分を深く愛せるようになりなさい。次に、自分と同じように人を大切にしなさい」
という意味なんだと思う。

自分をしっかり愛するためには、まず、「今の自分の力で、責任を持って対応できる領域」というものを確認し、他人との「境界線」をしっかり引くことが大切だ。

2004年4月12日
イラクの人質問題に対する政府の対応には、あきれるやら、やっぱり…と思うやら。
人の命がかかっているときは、意固地になってる場合じゃない。本当に人道支援のために自衛隊を派遣しているのなら、まず、自分の国の人の命を守れなくてどうする!…と思うのだが…。
きっと、人質になったのが、小泉首相の子供だったら、対応も変わったんだろうに…と思うと、本当に悲しいものがある。

みやさんのスペインのテロの後の対応の話を読むと、しみじみ、
「日本は本当に大切なことを忘れてしまっているかも…」
と、思ってしまう。
何とか、無事人質が救出されてほしいと、祈るばかりだ。

話は変わる。
 
先日、自然散策に出かけた。いい気分転換になるかなー、と思ったのだが、かえって疲れてしまった。

理由を考えるに、行楽地だったので、自然はたくさんあったけれど、人や車もいっぱいで、知らないうちに、他人のエネルギーを取り込んでしまったことが、原因のようだ。
自然から元気エネルギーをもらっても、人や車から疲れのエネルギーをもらっては、プラスマイナスゼロというわけだ。

ちなみに、多くの人は意識してないようだけれども、敏感体質の人は、知らないうちに他人のマイナスエネルギーをいただいてしまって、他人のおかげで余計な疲れを背負い込んでいるケースが多々ある。
敏感な人、感受性の強い人は要注意だ。

ちなみに、こういうときには、
「ああ、他人のエネルギーをもらってしまったな」
と、意識して、自分のエネルギーの中から、他人のエネルギーを取り除くように心がけるだけで、ずいぶん楽になる。
そのためにも、普段から、「ノーマルなときの自分の感覚は、こんな感じ」というのをしっかり把握しておくことが大切だ。

で、この日、私は「うーん、やっぱり我が家の自分の部屋が一番和む!」と、早々に家に帰ってきてホッと一息をついた。

この一件でふと思ったのだけれど…。世の中に気分転換法は山ほどあるけれど、
「今の自分には、どういう気分転換法が一番合っているのか」
 をしっかり把握している人は少ないかもしれない。

結構、他人の言葉や世間の一般常識につられて、「この方法が一番」と思い込んで試したものの、「かえって疲れてしまった」という人は、案外、多いような気がする。

それでも、まだ、気分転換ができる人はいい方で、バーンアウトして倒れるまで、疲れていることにすら気がつかない人も少なくない。
本当に、日本人って、がんばり屋さんが多いんだなーと思う。

ちなみに、私は根っからのインドア派。海で遊ぶのも山歩きも、旅行も好きじゃない。そんな私を見て、うちの妹は、
「ルナちゃんの散歩嫌い、内弁慶は、実は純子に、似たのかもねー」
ですって。

確かに…。
でも、やっぱり、休みの日は、ルナ子と一緒に家の庭で日向ぼっこが一番楽しいなあ!
我が家はちょうど花盛り。

桜、桃、りんご、牡丹、フリージア、つばき、花にら、etc
ああ、なんて、経済的な気分転換法&性格かしら・・・。

2004年4月5日
先週、何人かの人から、
「嫌な気分から、早く脱出する方法を教えてください。特に、人から嫌なことをされたときの対処方法」
と質問された。なので、「絶対しあわせに死ぬ方法」「心に天使を育てる本」とはちょっと違った視点から書いておく。

「腹が立つことがあったのー!一言文句を言ってやりたーーーい!でも、後々のことを考えると言えない!」
 ということは多いもの。

 腹ふくるるわざ・・・という言葉があるように、言いたいことを溜め込んでしまうと、体にもよくない。
 中には本当に便秘になってしまう人もいるくらいだ。
 だから、いいたいことがあったら、上手に伝えられるといいよね。

そうした時、「あなたのせいでこうなった」
と、相手に責任があるような言い方をすると、反撃されて大変な目に会うことが多い。なので、自分の気持ちに焦点を当てて、
「私は、そういうのはあまり好きじゃない」とか、「それは私には辛いからやめて欲しい」と、さらっと言えるとベター。
 
 言えない時には、無理して言わないことも、「自分を守るための方法」だ。
そのときには、「言い返せない。悔しい!」と思うのではなく、ちゃんと自分に「未来の自分を守るために言わないんだよ」と、言ってあげよう。

 でも、相手に「嫌なことを言えない」からといって、自分自身の中でも、「嫌だよー!」と言えないと、辛くなっちゃう。
なので、そういう時は、さっさと嫌な相手から逃げて、一人になってから、
「嫌だ。辛い。悲しい。苦しい」
 という気持ちのお手当てをしよう。

ちなみに、お手当てをするときには、
「Aさんが、OOといったせいで、すごく辛い思いをした!」とか、
「私の対応が悪かったせいかも」
などなど、原因探しや悪者探しにハマってしまうと、ますます辛くなる。

こんなときは、直接、感情と向き合うのが、早く、嫌な気分から脱出する近道だ。
「直接、感情と向き合う」というのは、理屈を考えず、嫌な「感覚」と向き合うこと。
 ぐじゃぐしゃ、ぎりぎり、きーきー・・・とか、嫌なときの感覚ってあるでしょ?
その感覚をしっかりつかまえて、
「あー、私は、このキーキー感が嫌いなんだわー」
 と、キーキーをしっかり把握した上で、それを緩和するのに、どうするといいかなーと考えてみる。

机や枕をたたいてみるもよし。新聞をバリバリに破いてみるもよし。キーキーと叫ぶもよし。お布団にくるまって、わーわー泣くもよ。自分に「よしよし」するもよし。カラオケを歌いにいくもよし…。
 たいがい、あれこれやっているうちに、楽になってくる。…というか、別の感覚に変わってくる。そしたら、「嫌な感覚からの脱出は大成功!」というわけだ

そうしたお手当てをした上で、気持ちが楽になったときに、もし可能だったら自分のことを振り返ってみよう! 
相手に文句をつけたくなったり、イライラを感じたりするときって、実は必ず、自分自身の中にも「似たような問題」か、「正反対の問題」がある。

例えば、相手の人から
「待ち合わせの時間に1分遅れた!」
と怒鳴られて嫌な思いをしたとする。

でも、こんなとき、「一分くらいどうでもいいじゃん」と、心底から思っている人は、
「おまえ、細かいやつだなー。そんなことでブツブツ文句をいってる間に、これからの時間を損するぞ。さあ、行くぞ!」
といって、怒鳴っている人に取り合わず、傷つきもしない。

でも、「人に不快な思いをさせてはいけない」とか、「時間はきっちり守らなければ」などという価値観を持っている人は、怒鳴られて、ショックを受けて傷つくものだ。
(ちなみに、怒鳴った相手も、同じ様な価値観を持っているんだよ)

 なので、「むかっ」ときたり、「それは違うんじゃないの!」と言いたくなったときには、「相手を変えさせよう」とか、「相手に忠告しよう」と思う前に、もう一回だけ、「実は、私も同じような問題を抱えていないかしら」と自分を振り返ってみるといいかもね。
 人に余計なおせっかいをしてしまったばかりに、混乱を招いて、とばっちりを受けて、さらにイヤーな思いをすることって、結構あったりするからねー。

ところで…。
心が楽にならない原因の一つに、「執着」というものがある。執着するものが多ければ多いほど、結構苦しいものだ。
 執着の対象は、「車、宝石、彼、彼女、配偶者、家族、生活習慣、価値観」いろいろ・・・。
 
ちなみに、すごーーく執着して、あきらめきれないときには、何か理由があるので、徹底的に執着してみるのも一つ。
 でも、そのときに、「どうして、それに執着するんだろう。それ以外では、なぜ満足できないんだろう。それを得ることで、さらになにを得たいのだろうか。それを得ることで、どんな感覚、どんな感情を満たしたいんだろうか」と、質問してみると、新しい視野が開けてくる。

 実は、執着の原因を探ってみると、
「人から認められたい」「自分はすばらしい人だと思いたい」「もっと人から愛されたい」「自分のすべてをわかってくれる人と巡り会いたい」「心の平和が欲しい」「孤独感を一瞬たりとも感じない状況にいたい」「天国にいるような至福感の中に浸ってたい」
などなどの、本質的な願いが隠れていることが多い。
 そして、その「本質的な願い」に集中して、「これが欲しい!」と願ったほうが、願いは早く叶いやすい。それに、その「本質的な願い」にたどり着くと、「執着」の多くは、消えてしまうものだ。
 
 でも、欲や執着の全くない生活というのは、幸せそうに思うかもしれないけれど、案外、多くの人にとっては、とても苦しいものだったりする。

 なぜなら、執着や、欲がないと、向かうべき「目標」がなくなって、「ただ存在するだけ」になってしまうからだ。
たいがいの人は「目標に向かってまっしぐら」と走っていることで、
「ああ、自分はがんばっている、精進している!日々、成長し、進歩している。だから大丈夫」
と、どこか安心を感じている。
 忙しかったり、目標があったりして、「がんばっているor悩んでいる」方が、人は安心するものだ。
 それでも、「走っている方が安心」なときは、ひたすら走るのがいい。多分、なにか、「納得するまで走りつづけたい」という「大切な理由」があるからだ。

でも、日々の時間と流れの中に「ただ存在するだけ」になると、それはそれで、別の視点が見えてくる。
 走っているときには見えなかった「道端の雑草」「流れる雲の変化していく形」「それぞれのふさわしい場所にふさわしい人が存在していること」などなど・・・。

「ああ、今まで気がつかなかったところに、神様の恩寵があるんだなー。いいことだけではなく、悪いこと、不幸なことの中にも、ちゃんと神の恩寵はたくさんあるんだー。
すべてのことは、必要があって起こっているし、存在しているんだなー。何も無理して変えなくても、そのままでいいんだー。都合が悪くて、変えたいと思うところだけ、変えればいいんだー」
と思わされる。

よくはわからないけれど、「生きながら天国に住む」というのは、こんな感覚なのかもしれない。