ひまわり先生のひとりごと

2004年10月


2004年10月25日
今年は、あちらこちらで、自然災害が続いた。
 こういうことが起こると、しみじみ、「普通に生活できること」がいかに当たり前でないか、ということを痛感させられる。

 と同時に、今まで各地を転々として生活してきて、今現在も、講演会で各地を回っている私としては、人生の不思議も感じる。
 「あの時、転職しなければ、被災地で右往左往していたのかもしれない」
とか、
 「この日に講演会に行っていたら、クリニックはしばらく休診になっていたかもしれない」
とか、思うのだ。
 
 そう考えると、被災地のことは他人事ではないが、こうして、今日、診療できる縁をいただいていることもまた、当たり前ではなく、意味深いことではないかと、考えてしまう。
もしかすると、
「今日、あなたには、ここでしっかり診療してもらいたい」
 という天の願いがあって、私は今日ここで仕事をさせてもらえるようになっているのかもしれない・・・とも思う。

 被災地の人々同様、ひまわりに受診にこられる人々は、やはり、心の中に大きな被災地を抱えている人が少なくない。
 特に、心の病気にかかって寝込んでしまっている人などは、災害のニュースを聞いて、
 「住む家があるだけでもありがたいし、私は体が健康だ。
だったら、こんなところで引きこもってないで、被災地に手助けに行くことくらい出来ないでどうする。
 私って、なんてダメな人間だろう」
と、かえって落ち込んでしまっている人が少なくない。

 こういう人が、自分の中の被災地を放り出して、他の被災地を助けていたら、自分の被災地の崩壊はどんどん進んでしまう。
 そうすると、ついには、自分自身の地盤が崩れたところから、周囲に新たな大きな被害がおよんで、思わぬ大災害が起こってくる。

 目に見える災害は、対策がわかりやすいが、目に見えない災害ほど、対策は本人にも、周りにもわかりにくい。

 そして、災害の予防は、目に見える災害でも難しいように、心の災害ではもっと難しい。でも、対策にはどちらも共通するものがあるように思う。
 「普通」「当たり前」と思って、ないがしろにしていることを、普段から大切にすることも、その一つだ。
 
 そして、災害は大変だが、「大変」も上手に受け止めて乗り越えると、「幸い」に転じることが、絶対に出来る。それは、心の災害でも同じだ。
特に、今現在、心に被災地を持っている人たちは、周りのことよりも、まず自分自身の被災地をしっかり救済できるように、目の前の自分が取り組むべき問題と向き合ってもらいたい。

 被災地の方々が、「大変」を乗り越えて、今まで以上に、よりすばらしい人生を掴まれるように、心から祈っている。
2004年10月18日
一生懸命がんばっても、物事が思うように行かない時期というのが、時々くる。
最近、そんなことが結構少なくない。

先日、妹と旅行に行ったときも、そうだった。計画していたことが、ことごとく、うまくいかず、「なぜ???」と思うくらいハプニング続き。

たぶん、ハプニングにめげずに、「なんとしてでも、最初の計画通りに!!」と、無理を通していたら、悲惨な旅行になったに違いない。
ところが、我ながら、すごかったのは、
 「うまくいかなかったのは、なにか意味があるんだろう。その意味を考えつつ、今のこの現状の中で、最善の道を考えよう」
と、無い知恵をめぐらせ、臨機応変に、計画を全面変更したこと。

結果的には、塞翁が馬で、「失敗した」と思ったことが、すべていい方に転じて、終わってみたら、とてもいい旅ができた。実に教訓的な旅だった。

人生には、「うまくいかないこと。失敗。不幸な出来事」はつきものだ。でも、その時に、どんな対応をするかで、その後の人生が分かれてくる。
「自分の身を嘆くことにエネルギーのすべてを費やして」しまえば、不幸で人生が塗り固められてしまう。

でも、「ハプニングも、なにか意味があるんだろう。よし、これをバネにして、リベンジしてやろう」と思えば、成功への道が開ける。

いろいろな人の生き方を見ていて思うのだが、不幸な人ほど、予想外のハプニングが起こったときに、「出来事の中の不幸な部分」だけを見て、その中にどっぷり漬かって動き出せなくなってしまうような気がする。
幸せを掴める人というのは、同じ環境に置かれても、
「すぐに気持ちを切り替えて、可能性のあることなら、どんな小さなことでも、ともかく、まずは始めてみる」
ということができるようだ。

だから、落ち込んで動けないときほど、
「こんな小さなことしか出来ないなんて、私ってダメ」
と、自分を責めず、小さいことが出来る自分を応援することからはじめるといい。

今、ベストセラーになっている「キッパリ」という本ではないけれど、一つ一つ小さな小石を積み上げれば、いつか、大きな山ができるものだ。

ところで、最近、ふと思うことがある。

私に限らず、世間の多くの人は、わざわざ自分の身の回りに、作らなくてもいいような「大変」や「不幸」を無意識に自分で作り出して、本来なら平和に過ごせる毎日をややこしくしているような気がする。

たとえば、逆上がりが苦手だけれども、絵画は得意という人。
こういう人は、一年間必死の努力と、苦労を重ねて、逆上がりを習得する…という人生を選ぶこともできる。
その一方で、逆上がりをあきらめて、楽しく毎日絵を描いて過ごすこともできる。

でも、こうした選択を迫られたとき、たいがいの人は、「楽しく過ごす道」ではなく、「苦労してできないことを克服する道」を選ぶ。なぜなら、世間一般の人々も、自分自身も、「苦労している道」の方が、「とてもがんばっていて、立派なことをしている」と評価しがちだからだ。

そして、わざわざ(知らず知らず?)自ら、「苦労の道」を選んでおきながら、「人生とは茨の道だ」と、嘆いていることも多かったりする。

「楽な道は、怠惰な道」と思われがちだが、単に、「自分に向いているから、楽に感じられる道」というだけだ。
無理して、イヤイヤ「苦労の道」を歩くくらいなら、「自分にとっての楽しい道ってなんだろう」と考えて、「楽な道」を歩くのもいいんじゃないかな。

でも、人って、「苦労」「不幸」があることで、とてもがんばって、充実している気になっていることがある。苦労がちょっとあると、刺激的で、日々が充実して感じられるし・・・。案外、「不幸や苦労や大変は嫌だ」といいながら、その実、平和でのんびりした毎日が続くと、
「これでいいんだろうか?私は怠惰になっているんじゃないだろうか」
と、かえって不安になって落ち着かない人も多いんじゃないかな(実は、私もそういう傾向がある…)

平和でのんびり…という生活が板についてない人には、想像することすら難しいのかもしれないけれど・・・。実は、楽しく幸せでのんびりした暮らしをしながら、もっともっと、素晴らしい幸せを探す道もあるはずだ。

そのことにはっきり気がついたのは、先日、来院された方が持ってこられた「素晴らしい写真」を見たときだった。
携帯で写されたその写真には、雲、光、木々、土…といった見慣れた風景の中に潜んでいる「輝くばかりに生き生きとした生命の息吹」が鮮やかに映し出されていた。
まるで天使がシャッターを押したような写真だった。

日々、見慣れているありふれた日常も、よくよく目を凝らして見ていれば、もっともっと、深い輝きにあふれている・・・ということを、あらためて教えられた気がした。

私は幼少時、「不幸(闇)があるのが当たり前」の環境で育ってきた。
成長して、自分の気持ちを変えることで、「不幸(闇)の中に隠れているささやかな普通の幸せ(光)」を大切にすることを学んだ。
そして今。
「普通の幸せの大切さを強く感じていたい」と強く思うあまり、わざと「不幸」を身のまわりにおいて、より「普通の幸せ」を輝かせようとしてはいなかったか、と自分を問い直している。

そんな無理をしなくても、もう充分に「普通の幸せ」の価値は、学習した。
これからは、「普通の幸せ(光)の中で、より深く輝いた幸せ(深い光)」を探す道を探っていきたいなあ、と思う今日この頃。
2004年10月4日
大切な人を失いそうな重要な局面に立たされている人々から、
 「主治医からも、「覚悟を決めてください」といわれ、民間療法の治療家からも、「やるだけのことはやりました」といわれ、占い師からも「大殺界に入っていて、今は一番運気が下がっているから、無理でしょう」といわれました。
 もう望みも絶たれ、神仏からも見放されたのかもしれません。
 それでも、あきらめきれないんです」
 という相談を受けることが、多々ある。

 そんな時、私は、こんな風に答える。

 「主治医がなんと言おうが、占い師がなんといおうが、あなた自身の
「大切な人を救いたい!奇跡を信じたい!」
という思いが一番大切なのではありませんか。

 「たとえ、1兆分の1の確率であっても、最後まで奇跡を信じつづけること」
 は、あなた方家族にしかできない最高のその方へのプレゼントだと思います。

 神仏が見放したから、どうだっていうんです?
 神仏が見放したって、神仏に逆らったって、
「自分自身とその人の望む「奇跡」を、ぎりぎりまで信じつづられる」
 って、素敵なことでしょう?

 それに、その方にとっても、「ああ、もうだめなんだなー、と思っている人がそばにいる」より、「絶体絶命の時ですら、「私はあきらめないよ!!」と言い続けてくれる人がそばにいる」方が、嬉しいのではありませんか?
それに、そこまで応援してもらえば、たとえ、結果が望み通りでなかったとしても、
 「神仏が「OK」といってくれないときでも、自分の周りの人たちだけは、最後まで祈ってくれた」
 と思えて、心が慰められるかもしれないでしょう?

 野球ならば、「九回裏、ツーアウト、ランナーなし、フルカウント」でも、自分自身のためにも、あきらめないで、全力を尽くして、祈れるだけ祈りましょう!!

 ダメだとはっきり結論が出るまでは、たとえ、1兆分の1でも「奇跡」が起こる可能性は残っているわけですから!

 それでも、ダメだった時には、自分と相手のために、思いっきり泣いて、神仏に恨みつらみを言いたいだけ言えばいいじゃないですか!
 「なにが、「神は不可能を可能にできるだ!必死の願い事は叶う」…だ!
  叶えてくれなかったじゃないか!ばかやろーーーぅぅぅう!」
 って……。

大丈夫!どんなひどい言葉を言っても、私が、
「そうだ、そうだ!神様のバカやろうぅ!」
って、一緒に言って、受け止めてあげます!

人間の私ですら、そうやって受け止めるだけの許容力、包容力を持っているんですから、もっともっと心の広い、神仏が受け止めてくれないわけがありません。

きっと、神様もあなたの恨み言を、うんうんと聞きながら、
「ごめんなさいね。どうしても、この人にはこっちの世界に戻ってもらって、奉仕をしてもらわないとダメなんだよ。許してね。私たちのこと、いっぱい恨んでもいいから・・・」
と、いってくれるに違いありません」

世界中の誰よりも、神仏よりも、「自分自身と、自分の周りの大切な人たちの思い」を応援できた時、たとえ、結果は望み通りにならなかったとしても、長い長い年月が過ぎた後には、
「あれはあれで、意味があって「叶わなかった願い」なのだろう。
 少なくとも、私は、最後まで、悔いのない行動ができた。それ以外、方法はなかった。あれはあれでよかったのだ」
と、思える日が来るのかもしれない。