16年ぶりに雛人形を出した。
我が家の雛人形は大きな七段飾りと、大きなガラスケースに入った15人飾り以外に、ガラスケース入りの人形が10数ケースある。
全部で、押入れ、軽く一つ分を閉めるくらいの量だ。
母が亡くなる直前まで、東京の自宅に、寄り付いたことのなかった私は、実は、雛人形がどこにあるのかも知らなかった。また、16年も放って置かれた人形は、虫食いだらけで、大変な状態!
結局、一日がかりの仕事になった。
大量の雛人形を出しながら、しみじみいろいろなことを考えた。
「人形の数だけ、命の誕生を祝う心があったこと」
「普段通り、家事と育児をこなしながら、人形を出し入れすることがどんなに大変であったかということ」
「物は、大切に使われ、保存されてはじめて、「命」が通うのだということ」
人形一つ一つに向かって、
「長い間、放っておいてごめんなさいね」
と声をかけ、掃除をして飾りながら、亡き母にあらためて感謝の念を抱いた。
子供の頃の母との生活は、お世辞にも、いい親子関係とは言えるようなものではなかった。正直言って、母を殺して自分も死のうと、包丁を突きつけたことすらある。
いろいろなことがわかってきた今、振り返ってみるに、私は決して育てやすい子どもだったとはいえないように思う。
「繊細で、理屈っぽく、それでいて、甘えん坊」だったからだ。
そんな難しい子供を持った母も、思えば気の毒だったと、今では思う。母は、母なりに一生懸命立派な母になろうとしていたに違いない。
でも、うまくいかない子育てに、どんなに疲れ果てた日々だったことだろう。
それでも、毎年、母は雛人形を飾っていた。3人の幼子を抱えて、家事をしながら、あれだけの雛人形を出すのは容易なことではなかったはずだ。
ある本に、「愛情をかけて育ててもらえなかったと豪語する人も、生きている以上、誰かしらから、ちゃんと、愛情を受けてきたのです。
なぜなら、オムツを替え、食事を与えてくれる人がいなければ、その人は育つこともできないのですから・・・」と書いてあった。
小さな姪っ子を抱えて、てんやわんやで暮らしている弟夫婦を見て、
「これだけ、電化製品も発達して、家事が楽になっている今現代でさえ、一つの命をはぐくむということは、とても大変なことなのだ」
としみじみ思う。
「子を持って知る親のありがたさ。孝行したいときに親はなし」
とはよく言ったものだと思う。
仕方ないので、仏壇の母の遺影を磨きながら、
「ごめんね。子どもの頃、反抗ばかりして、苦しめちゃったね。
私も苦しかったけど、私が苦しかったということは、ママさんも苦しかったっていうことだね。だって、片方だけが苦しいってことは、絶対にないものね。
今になってよくわかったよ」
なんて、話し掛けてみた。
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