ひまわり先生のひとりごと

2003年12月


2003年12月25日
いよいよ平成15年も終わり。
なんだか、わけのわからないうちに、荒波に揉まれに揉まれて、怒涛のように過ぎていったきつい一年だった!
 
でも、ここ12年分の人生の垢を全部洗い落としたような年だったかもしれない。

来年、私は九星気学では「新しい始まりの年まわり」になるらしい。四柱推命では「空亡(いわゆる天中殺)」にあたっている。
ちなみに天中殺というと、恐ろしいことがある年のように言われているが、本当の占いの専門家に言わせると、「実りの年」なんだそうだ。
 
つまり、それまでの10年間に積み重ねてきたことの結果が、形になって実る・・・らしい。いいことをしてきた人は、いいことがたんまりあるし、悪いことを重ねてくると、ツケがまわってくるとか。
ちなみに人生には、付け焼刃は効かない。

つまり、天中殺間近になって、新しいことに手を出すと、
「ちゃんとした土台のない上に、家を建てることになる」
ので、悲惨な目に合いやすいのだとか。
でも、世の中の人は、地道にコツコツ積み上げるよりも、要領よく、一気にやろうとする人が多いので、天中殺にコケる人が多く、
「天中殺=悪いことがある」
 という理論が出来上がってしまったらしい・・・とか。

ちなみに、天中殺の時には、新しいことに手を出さず、
「今まで積み上げてきたことの結果を感謝して、頂戴する」
というのが理に叶った過ごし方・・・らしい。

それが確かなら、来年は、私はいい年になるはず?!

なんたって、自分で言うのもなんだが、この12年間は、ほんとに努力してきた!
なので、
「神様、仏様、誰でもいいけど、こんなにがんばったんだから、素敵な「実り」を下さいませねっ!」
と、半ば脅迫めいたお願い事をしつつ、来年を楽しみにしている私なのでした。

皆様も、よいお年をお迎えください。

2003年12月22日
先日、ホスピスに仕事に行った。てきぱき仕事を終わらせたら、必要な仕事が早めに片付き、時間が余ったので、包帯交換に使うガーゼをたたむ仕事を手伝った。

ちなみに、ガーゼをたたむ仕事は、本来、看護助手さんの仕事だ。
でも、この日、看護師さんも、看護助手さんも大忙しで、一番余裕があったのが私だったというわけだ。

せっせとガーゼをたたんでいたら、看護師さんや患者さんの家族が、
「なんで、お医者さんがガーゼなんてたたんでいるんですか?
 そんな誰でもできるような単純な仕事は、他の人にやらせて、先生しかできない仕事をすればいいのに・・・」
と話し掛けてきた。

実は、私も昔同じ様なことを考えていた。
「包帯を交換したり、検査伝票を切ったり・・・。
そんな誰でもできる仕事より、立派な手術ができて、立派なカウンセリングができることの方がすごい」

でも、最近、私はこういう「ガーゼたたみ」のような単純な仕事を心を込めてやることの方が、実は、医者の仕事より難しいし、神への奉仕に近いんじゃないかと思い始めている。
 なので、私に話し掛けてきた人たちにこう答えてみた。

「同じガーゼでもね、「よくなりますように」って、一枚一枚願いをこめて折られたものと、「面倒くさいなー」と思いながら折られたガーゼでは、もしかしたら、治療効果が違ってくるかもしれないでしょ?
人間には、同じガーゼに見えても、神様から見たら、祈りの込められたガーゼは、金色に光っているかもよ(笑)
私のたたんだガーゼを使ったら、私の心が伝わって傷がよくなったら、ちゃんと、「私にしかできない仕事」になると思うの。
それに、どんな仕事だって、必要で大事な仕事だから、手のあいている人がやればいいんじゃないかな?」

そうしたら、看護師さんとご家族は、
「私もそんな風に、祈りを込めながら、今日、私ができることを一生懸命やります」
といって、自分の場所に戻っていった。

将来、年取って、医者ができなくなったら、病院でガーゼたたみのボランティアでもしようかなー。

余談。
がんばって、心を込めて仕事をしたせいか、この日、神様が粋なプレゼントをくれた。

この日は師匠の舞台があったのだが、仕事が定時に終わっても間に合うことは、「95%不可能だ」と思っていた。
ところが、始まる5分前に何とか到着できたのだ!

しかも、この日は600席近い観客席が満員で、補助椅子まで出ていた。なのに、たった一つだけ、席が空いていて、座ることができた。
さらに驚いたことに、この席、師匠の舞のハイライトシーンが真正面で見られる特等席で、前の席の人が、師匠の舞台が終わるまで戻ってこなかったため、とてもよく見えたのだ!

後で聞いたところによると、この席は、ある女性が、「私の連れが来るから、この席は譲らない!!」と、私が来る直前まで陣取っていたのだそう。ところが、開演2時間たっても連れが来ず、周囲の人たちに白い目で見られてバツが悪くなった女性が荷物をどけた直後に、私が会場に着いたのだった。

しかも、たまたま、その席の後ろに私の知人がおり、

「席が空いたから、いらっしゃい」
と呼んでくださったと言う事らしい。

うーん、神様っていうのは、粋な計らいをするものだ。
「ガンコなおばさんの困った行動も、神様は、ちゃんと、無駄にせず、いいことのために利用したのね。

きっと、他にも、同じ様に、「ある人の目から見たら、悪いこと」も、「誰かのためのよいこと」につながっていることって、いっぱいあるんだろうなー。

神様の目から見たら、良い悪いを越えて、すべての人の行動は、ちゃんと誰かの役に立っているんだろうなー」
と思った一日だった。

神様、素敵なクリスマスプレゼントをありがとう!!

皆さんにも、素敵なクリスマスプレゼントがありますように。

2003年12月15日
ここ2週間ばかり、絶不調で、体が思うように動かず、定時の仕事をこなすのが精一杯だった。

「そんなに、ハードな仕事はしてないのなぜ?」
と思いつつも、長年の経験で、
「理由はともかく、「体が動けない」と言っているのだから、最低限の仕事だけやって休もう」
と、ひたすらお休みモードに調整していた。

休む…というのは、とても難しい仕事だ。
辛いときに、すごくがんばっていると、「私ってエライ」と思えるけれど、休んでいると、心のどこかから、
「まだ動けるのに!怠け者!」
という声がしてくるからだ。

でも、最近では、
「こんなにすぐに休めるようになったなんて、私ってすごーい!」
と、言えるようになったのだから、私もずいぶんお休み上手になったものだ!

ところで、疲労の原因を究明してみた。
どうやら、先月末くらいから、生活習慣を少しずつ切り替えていたことのツケがまわってきたようだ、と判明。

実は、いろいろなきっかけがあって、ここ最近、「自分の人生の目的」を再検討し直した。その結果、

「人生の目的と、今の生活がずれていること」
 に、ハタと気づき、生活習慣から改革に乗り出したというわけだ。

ところで、何か新しいことを始めるときは、たとえそれが「些細なこと」でも、相当エネルギーを使うものだ。
だから、少しずつ始めることが望ましい。

また、新しいことを始めるときには、必ず、なにか古いことを捨てることが肝心だ。
「人が持てる荷物の量」には、限りがある。
今まで、目いっぱい持っていた人が、さらに新しいものを持つと、絶対、病気になってしまうものだ。
だから、新しいことを始めるときには、それより少し多い量の「古いもの」を捨てるのが、うまくいくコツだ。

・・・とは、重々わかっていたつもりだったのだが…もともと猪突猛進型の私。
知らない間に、急いでたくさんの事を始めていたみたいだ。大反省!

ちなみに、私はまず、パソコンに向かう時間を強制的に減らすことからはじめた。

クリニックから個人用のパソコンを撤退。インターネットへの接続は一日一回。出張に出た日は接続しない…と決めた。
これで、かなり時間を確保したが、まだまだ、大切な生活習慣を確立するには、時間が足りない。

あとは、仕事と趣味の時間を削るしかない・・・ここは削るのがとても難しい!!!
どうやって、時間を調節していくか・・・。
それが、来年までの課題だ。


2003年12月8日
家族の時間

先日,愛新覚羅博傑、浩夫妻のドラマを見た。以前,別の番組でも二人の生涯は見たことがあったが,あれほどまでに運命に翻弄された人生だったとは知らなかった。
 
私が一番感動したのは,夫婦が16年も離れて過ごしている間,お互いが読んでもらえるあてのない手紙を書き続けていたことだ。 そして、晩年、二人は,寄り添うように静かな時間を過ごしたとのこと。
 
「ひまわり」では,「夫がずっと単身赴任していた後,一緒に暮らすようになったら,ギクシャクしてうまくいかなくなり,お互い熟年離婚を考えている」という相談が少なくないので,愛新覚羅夫妻の生き方には、本当に考えさせられた。

おそらく,夫婦が離れ離れに暮らしていると、寂しさを紛らわすためにお互いに別々のことに夢中になることが多いのだろう。そして、いつしか、寂しさを紛らわせるために始めたことが,自分の生活の中心になってしまうと、長い月日の間には,お互いの生活パターンが全く違ってくる…。なので、いざ,二人で過ごせる時間ができた頃には,そりが合わなくなってしまう…ということが,多いように感じる。
 
離れ離れに暮らしている夫婦だけでなく,一緒に住んでいる夫婦であっても,片方が仕事に夢中になり,片方が育児や趣味に夢中になっていると,お互いがかみ合わなくなる場合も少なくない。

夫婦の時間を一見共有しているように見えても,本質的なところで,「夫婦の時間」より、「日々の生活そのもの」に重点がおかれてしまうと、「日々顔は合わせていても,心は向き合えてない」・・・ということになるのかもしれない。


ところで、「読んでもらえない手紙を毎日書く」というのは、とても忍耐力と根気のいることだ。それに,手紙を書くためには,
「こんなことを,夫に伝えたい」
 と、思いながら,日々の生活を送ることが不可欠だろう。
すると、離れていても,実は,一緒にいるよりも,しっかりお互いの心と向き合うことができて,充実した生活を送れているのかもしれないなー・・・なんて思う。

今時,諸事情で,離れて暮らしているご夫婦は多いと思うが,「寂しさを紛らわすものが豊富」な時代に生きているがために,逆に,ある意味,人とのつながりを失ってしまいやすい環境にあるのかな―と,思わせられたひと時だった。

話は変わる。

昨日,「千住三兄弟が過ごすリッチな休日」…という番組を妹と一緒に見た。
そのときの二人の会話。
 
妹 「この兄弟が一緒に過ごしている時のふわふわの雰囲気って,
   結構,うちの姉弟と,共通性があるよねー」


私 「確かに,確かに!

   とっても,仲良さそうで,ほのぼのしてるしねー。
   うちも,姉弟三人,超ほのぼの系だもんね。
   でもさー、ずいぶん,生活レベルには差がある感じだよね。
   向こうは,優雅にテーブルコーディネイトをして,
   お高いワインを開けて,リッチな食事をして、
   「ワインをもう一口いかが?」って感じ・・・・でしょ?

   でも,我が家って,テーブルの真ん中に,どーんと鍋を置いて,
   「いっぱい食材,買ってあるから,遠慮なく,どんどん食べてよねっ!
   あ,ビール,足りない?エビス?サッポロ?
   持ってくるから,がんがん飲んでねっ!
   ポン酒もあるよっ!」
   って感じだもんねー」

我が家ってば,庶民派版「千住三兄弟」って感じ?
 
2003年12月1日
片付け熱がヒートアップしている私は、先日、ついに物置部屋の荷物を片付けることにした。10数年前に引越ししたときからそのままになっていた荷物だ。

「片付け始めたら、相当時間がかかるんじゃないか」
と思って、今まで手がつけられないでいたが・・・。
思い切って、はじめてみたら、なんてことはない、ものの2時間程度で片付いた。
しかも、一つ大発見!

荷物の中には、
「捨てるに捨てられない。かといって、目につくところにおいておくのは、当時の辛い思い出の数々が甦ってきて、耐えがたい。
この時代の出来事はおそらく、死ぬまで消化できないだろうから、心の奥底の箱にしまって、死ぬまで持っていこう」
と決意を込めて、封印した品が、厳重に包装されて出てきたのだ。

ところが、月日の流れというのはありがたいもので、今になってみたら、そんな品があったことすらも、忘れていた!
つまり、今開けてみたら、「思い出の品」は「単なる普通の物」に変わっていたのだ。

「この10数年で、私は相当成長したんだなー。あんなに当時は悩んだことは、成長した私から見たら、別に、なんてことのない問題だったんだー」
と思ったら、なんだかとても嬉しくなった。

今回、片付けをしていて、学んだこと!
「難しい問題は、しっかり封印しておくに限る!そして、自分に力がついたときに、開けてみて、解決する方が簡単だ!」

さらにタイムリーなことに、昨日は、知人の御招待で、岡村孝子さんのコンサートに行ってきた。
懐かしいナンバーが満載の内容で、感激もひとしおだった。

私の人生の一番苦しい時代に、寄り添ってくれたのが岡村さんのアルバムだ。
「このアルバムを一通り聞いて、それでも元気が出なかったら、死のう」
などと、本気で思った時期もあったくらい、命を救われてきた。

なので、歌を聴きながら、
「ああ、この曲は、こんな出来事があったときに聞いたんだった。こっちの曲を聴いていたときは、こんな大変なことがあったんだっけなー。
よく、がんばって乗り越えたきたなー。
あの時代に、岡村さんのアルバムを自分に買ってあげたことだけでも、昔の自分に、
「いいことをしたよ!!よくやった!!」
と、いってやりたいなー」
という思いでいっぱいになった。

なんだか、家の大掃除に続いて、ここ十数年の心の大掃除までした気分だった。

・ ・・という話をしたら、友人のSさんが、
「それだけ悲しめることがあったって、すごいことだね。今になってみれば、とても愛しい時間だよね」
と言ってくれた。

確かに!
この先、「あの時代以上に、悲しいこと、辛いこと」はあるだろうけれど、あれほどまでに、「地獄の苦しみを味わうこと」は、もう二度とないに違いないと思う。
なぜなら、苦労して成長したお蔭で、自分自身の心の中に、あのときほどの凄まじい「地獄の闇」が無くなってしまったから・・・。
もう、決して味わうことのできない地獄の経験も、「愛しい」と思えるほどに消化できるまでになった自分そのものが、なんだか愛しいと思える今日この頃だ


話は変わる。
先日、出張先の老人保健施設で、
「デンマークへの研修旅行に行かない?
デンマークって、すごくいいよ。学びがいっぱいあるし、本物の豊かさで溢れているし・・・」
と、誘われた。

でも、乗り物嫌いで、もともと出不精の私は、
「うーん・・・乗り物嫌いだし、そんなに旅行も好きじゃないからいいです。それに、今、海外研修で学びたいことはないし、今の生活、100%満足しているし・・・・」
と、断った。すると他の人が、
「それって、自己欺瞞じゃないの?
満足していると思いたいだけで、他を見ると、羨ましくなってしまうから、あえて見ないようにしているとか?
他を見たら、きっと、「こんなものもあるのかー」という発見がありますよ」
と、さらに突っ込みを入れてきた。

そのとき、私の口から出てきた言葉は、
「うーん、確かに、他を見たら、「すごいなー。素敵だなー」と思うと思うんですけど・・・。
でも、だからといって、今の自分と、比較してみるつもりもないんですよねー。
比較する、しないとか、そんなことはどうでもよくて、ともかく、私は今の生活が楽しいから・・・」
だった。

こんな風に、自分でさらっと言ってみてから、はっと気がついた。
どうやら、私は今の自分の生活に相当満足しているらしい。
なぜだろうと考えた。

たぶん、「幸せ」「豊か」というのは、心の感覚の問題だと、かなりはっきり認識したからかもしれない。

私が「幸せ」や「豊かさ」を感じるためには、別に、外国にいったり、飛び切りのゴージャスな体験をしたりする必要はない。
確かに、ある環境が整えば、より「幸せ」「豊か」を感じられるとは思うが、それがなくても、過去の幸せだった瞬間を思い出せば、いつでも、「最高の幸福感」を手に入れることができる。

ついでに、私にとっては、「最高の幸福感」だけでなく、「プチな幸福感」でも、十分楽しめる。

例えて言えば、アミューズメントパークに行ったらすっごく楽しいけれど、家で日向ぼっこしながらランチをするだけでも楽しいのだ。
二つの刺激の度合いは随分違うけれど、違うというだけで、比べる必要はない。

それに、何もアミューズメントパークに、わざわざ行かなくても、行ったときの写真をみて、
「楽しかったねー」
と話せば、行ったのと、似たような幸福感が味わえる。

うーん、なんて、経済的な性格!
だから、今に、満足しているのかもしれないなー、と思う今日この頃。