ひまわり先生のひとりごと

2003年10月


2003年10月27日
先日、ひょんなことで書道の話になり、そのお陰で、子どもの頃、通っていた書道教室で、とても大切なことを習っていたことを思い出した。

書道の先生は、お稽古の前には、必ずこんな話をなさったのだ。
「習字のお稽古で一番大切なことは、上手な字を書くことではなく、大切に墨をする時間です。
この墨が形になるまでの製造工程を思い、作ってくださった方に感謝し、少しずつ少しずつ、水を頂いて、これから使う分だけ墨をすりましょう。
 墨の減り方にはその人の性格が現れるものですよ」
 
その後、
「少しでも書道が上達するためには、墨なんかすってる時間がもったいない!墨汁でさっさと書き上げて、書道を早く終わらせて、他の勉強もしなくちゃ!」
とあわただしいお稽古の仕方に変わってしまった。その中で、実は失ってしまったことがたくさんあったのではないだろうか・・・と今になって思う。

ところで、久々にやっとゆとりの休日ができた。なので、朝からのんびり家の掃除を始めた。
実は、私は片付け、掃除が大の苦手だ。
一度部屋が散らかりだすと、「もういいや、面倒くさい」という気分になって際限なく散らかしたままになってしまう。

そして、忙しいときほど、「掃除はしなくても死なない。仕事、調べ物、お稽古、やらねばならないことのほうが先!!」

と、掃除、片付けが後回しになってしまう。

でも、このごろ、「掃除、片付けをする時間」というのは、「自分を大切にする時間。自分の心を整える時間」ではないかと、強く感じるようになった。
 
ゆったりした心で、「お部屋さん、今週も一週間、お世話になりました。机さん、今日も一日お世話になりました」と、清めることで、日々を暮らせる住居があることに感謝できるようになる。

こうして、生かされている自分とその周囲のものに感謝する時間を持ちながら生活することが、実は、真の豊かさにつながっていくのかもしれない。

夕方には、ゆったり時間をかけて風呂に入った。目をつむって、温泉に入っているのを想像しながら、お湯の温かな感触を味わっていると,とても贅沢な時間を味わえた気がした。
こうして、日々の一つ一つの出来事を味わい尽くすように過ごせば、いいことも悪いことも、自分の心と体を育てるための糧(心の食事って感じ?)になるように感じる。

無駄だと思われがちな時間、効率をあげるために切り捨てられてしまう時間の中に、実は、豊かさや幸せがいっぱい詰まっているのかもしれない。


話は大きく変わる。


私の周辺(30後半〜40代独身の仲間が多い!)では,今,俵万智さんと岸本葉子さんの生き方が話題になっている。

話題のお二人も40代,独身。

しかし、明暗を分けた生き方のように感じる。

爽やかで多くの人に支持されるような生き方をしながらも,進行性の大腸癌にかかってしまった岸本さんと,賛否両論に分かれるであろう情熱的な人生を歩み,シングルマザーとしての生き方を選んだ俵さん。

いいとか,悪いとか、ショックとか,いろいろな意見が喧喧諤諤、取りざたされているけれど,そうした評価は,今だけのことかもしれない。100年もたってしまえば,歴史の中の一つの出来事になって,


 「樋口一葉の生き方も,与謝野晶子の生き方も,それぞれすごい生き方よねー」
と私たちが見ているのと,同じ様なレベルで捉えられるようになるのだろう。

そして、もう一ついえることは,どんな生き方であれ,一つの人生はたくさんの人々に多大な影響を与えるということだ。
中には,「ある人のお陰で,私の人生は大変な目にあった!」と文句をいう人もいるかもしれない。でも,出来事や生き方は,単なる事実でしかない。
「塞翁が馬」という言葉があるように,その事実を良いことにするのも,悪いことにするのも,実は本人次第なのだと思う。

「だとしたら、自分が,「ああ,私は誰がなんと言っても,この人生を歩んでよかった」と思える生き方をすることが、なによりも大事なのかもしれないね」
と,妹や友人たちと話をしている今日この頃だ。

2003年10月20日

西洋占星術のある占い法によると、誕生日というのは、これから始まる一年のミニチュア版的な意味合いを持つらしい。
・ ・・という話を去年聞いて、
「じゃあ、「こんな一年でありたい」という願いをこめて、意図的にいい誕生日を過ごせば開運につながるんじゃないか?」
と、仮定を立て、去年はかなりかなり、意図的に充実した誕生日を過ごした。

ちなみに、去年は、お能を見まくり、神仏とかかわりの強い誕生日になった。
そして、実際、今年は、本当に神がかり的なことがいろいろあった一年だった。

今年は、神仏を大切にしつつも、現実に根ざした生活を大切に過ごした。特記すべき事は、「予想もつかないようなことで,思わぬラッキーなこと」がたくさんあったことだ。
・ ・ってことは、思わぬラッキーなことがたくさんある一年になるのか?!ちょっと楽しみだ。

ところで、ここのところ、毎晩のように亡くなった母の夢を見るもので、
「たまには、仏壇の掃除でもするか」
と、思い立って、徹底的に仏壇を掃除した。

あまりの汚さに絶句した・・・。
線香やろうそくの煤がついているからなのだろうけれど、天井なんて、じゃりじゃり音がするくらい真っ黒だった。
我が家で一番汚い部屋に、何の文句もなく住んでいてくださったのは仏様だったんだなーと、痛感。

ついでに、掃除をしながらしみじみ考えた。
「小さい頃、「子供の仕事は勉強すること!暇があったら、勉強して、偉い人間になりなさい」
と言われたけれど、偉い人間になることよりも、
 「仏様、今日も一日ありがとう」
って、お茶をあげたり、掃除をしたり,
「ご飯さん、今日も私の体を作ってくれてありがとう」
と感謝して食事をしたり、
「お洋服さん、今日一日、私のために働いてくれてありがとう」
って感謝しながら、片付けることの方が、ずっとずっと大切なことだったんじゃないかなー」

子供は模倣の中で育つものだ。
感謝や優しさを教われば,それを真似するようになる。
もし、切れる子供、ひどく落ち込む子供がいたとすれば、誰かがそういうことを教えたわけだ。
いったい、誰が教えたんだろう?
そのことを大人が意識しない限り、平和な社会はこないんだろうなー、と思う今日この頃。

話は変わるが,「フジコ・ヘミング」のドラマを見た。
あまりの壮絶な人生に,「こういう人生だけは送りたくない」と思ってしまった。

でも,他人が客観的に見たら,私の人生も彼女の人生ととても似ているかもしれない。
さんざん苦しい思いをして,なかなか報われないのに、それでも,あきらめずに一つのものを追い求めつづける…っていうのは、考えてみれば同じだし…。
さすがに、フジコのように,「砂糖だけ舐めて生活する」というほど,貧乏は味わったことはないけれど,1万円の教科書を買うために,20円のパンの耳で,1週間食いつないだことはある(笑)
 
でも,そういう生活は、追い求めることが,よほど好きなことじゃないと,続かないなーと思う。

ちなみに、私はピアノがとっても苦手だから,フジコの人生と自分の人生を交換するのは絶対に嫌だ。
ピアノを聞くことは嫌いじゃないが,あまりにも、子供の頃、ピアノがらみで悲惨な思いをしたから…(笑)

でも、フジコのように、あれだけ地獄の苦しみを味わっても,最後の最後に老年になってから,本当の自分の道を見つけて,自己実現した人が存在してくれるのは,それだけで、他の人の励みになるなーとしみじみ思う。

「何かを成し遂げるのに,遅すぎるということはない。何事にも,定めの時というものがある」
というのは、真実だな―と思う今日この頃。



2003年10月6日
姪っ子が遊びにきたお陰で、子供の頃の記憶を随分思い出した。

私は、かなり小さいころから、こまっしゃくれた、反発精神旺盛な子だったので、社会に対する疑問をたくさん抱えていた。

まず、幼稚園に入園する前に知能テストを受けたときには、
「なぜ、こんなことをする必要があるんだろう?
でも,もしこういうテストが生きるために必要ならば,事前に解き方を教えられていれば、もっといい答えが出せるじゃないか。
なぜ親は、社会で必要なことを教えておいてくれなかったんだろう?」
と思ったものだ。

さらに、このとき、「右手ってどっち?」と質問され、答える前に、

「右、左を区別することに、何の意味があるんだろう。
右手も、左手も、形は同じ。
なのに、どうして、人は同じ物をわざわざ区別したがるんだろう」
とか、考えていた。
実に,変わった子供だ。

小学校に入ってすぐの頃には、複雑な表現をあらわす新しい言葉(例えば、「わび」「さび」のようなもの)を一つ習って、理解するたびに、
「大人は、簡単に「子供には、こういう感覚って理解できないのよね」というけれど・・・。
「理解できない」のではなく、感じていても、それを表現する「語彙」を持たない、ということになぜ気がつかないのだろう。

大人だって、子供時代を経験してきているはず。

ならば、自分が子ども時代に、どんな風にして言葉を学習し、獲得してきたかを思い出せば、そんなことは簡単にわかることなのに・・・。
子供も、大人と同じように、いろいろなことを考えて行動しているのだと言うことに、大人はなぜ気がつかないんだろう」
と、随分思っていた。

子どもの私の目から見ると、大人というものは、とても矛盾を抱えた存在に思えたものだ。
 「大人は、「人を仲間はずれにしてはいけない。差別してはいけない」と言いながら、私が部落の子や障害を持っている人と仲良くすると、「悪いことが移るからやめなさい」という。
でも、相手が悪い人でないことは、見ればわかるのに・・・。
大人がそうやって、子供に「あれは悪いもの。怖いもの」と教え込むから、それまで怖くなかったものを「怖くなる」のではないだろうか?」
と思ったり・・・・。

それで、一度、小学校2年くらいのとき、大人に向かって、

「大人は「差別をするな」っていうけれど、子供は教えられなきゃ、差別なんて言葉だって知らない。
 差別を作っているのは、子供じゃなくて大人だと思う」
と言って、えらく怒られたことがある。

他にも,子供心に、大人社会が本当にゆがんで理不尽に見えたことはたくさんある。

「子供が自殺したニュースが流れたときに、児童心理学の教授が、えらそうなコメントを新聞に書いていた。でも、子どもの私から見ると、その内容は「子供の気持ちを全くわかってない大人の考え方だ」と感じた。
そのため、「死んだ子供は、こういう気持ちだったんじゃない?私だったら、こんなときに死にたいと思う」と、コメントしたが、大人たちは「あなたの考えより,心理学の教授の言葉の方を正しい」と、取り合ってくれなかった。なので,私がさらに,
 「でも、死んだ子の本当の気持ちは、死んだ子にしかわからないよね?」
 と、言うと、「子供にはわからないだろうけど,心理学の偉い先生には何でもわかるのよ」と、一笑に臥されてしまった。

そんな大人の様子を見て、「こんな風に、大人が気持ちを理解しないから、あの子は死んじゃったんじゃないかなー」と思ったこと」

「親たちは,「学校の先生を尊敬しなさい」と言いながら、裏で先生の悪口を言っている…という,自分たちの行動に矛盾に気がついてないこと」
「子供の言い分を聞かずに、一方的に、大人の視点で判断して叱ること」
「けんかするなと言いながら、国会では、大人がけんかばかりしていること」
「ニュースでは、悪い出来事ばかり流していて、いい出来事はほとんど流さない。そうしたことが子供の潜在意識に、どんなに悪い影響を与えるかということを考えもせず、単純に、
「ニュースを見ることは、えらいことだ」と言い切れてしまう大人の無神経さ」
「生きるために、一番大切なことは、本当にいい成績をとることなんだろうか?いい成績をとる人がいたら、必ず落ちこぼれの人が出る。
 生きるためには、成績より、もっと大切なことがあるんじゃないだろうか?…という疑問」
などなど・・・。
 
疑問をいくら大人たちに投げかけても,あまりにも理解されないので、子ども心に,私はこう誓ったものだ。
「大人になると、子どもの頃の記憶はほとんど失われてしまうのかもしれない。
あんな矛盾を抱えた大人にはなりたくない。
でも、もし、大人になるなら、絶対に、子どもの頃の記憶をなくさずに大人になるぞ!
そして、自分が子育てするときには、絶対に子供の心が理解できる大人になるんだ!
社会の矛盾を、子供に説明できる大人になるんだ!!」
小学生でこんなことを決意していたなんて、やっぱり、私って変わった子だったんだわ。

今、小さい姪っ子を目の前にすると、
「なるほど、こんなに小さくて、遊びにばかり夢中になっている子供が、そんなことを考えるとは、大人は夢にも思わないだろうなー」
なんて、大人になった今、しみじみ思う。

でも、大人になった今、子どもの頃の記憶を振り返ってみて、
「あの頃私が、社会や大人に対して疑問に思っていたことのほとんどは正しいことだった」
 と思う。
と、同時に、そうした矛盾に気がつかないで、ほとんどの人が生きてきてしまったから、そのことに気付かせるために、社会には問題がたくさん湧いてくるのだということもわかった。
 
人間は「本当の意味で生きること」を学ぶために生きている。
そのためには、「問題」が、この世からなくなることはありえないだろう。
ならば、「問題のない社会を作る」のではなく、「問題のある社会で生きていく知恵をつけること」が大切だ。これからの子供たちには、最低限の生活に必要な知識と共に、そうした「生きる知恵」を教えてあげたいと思う。
 
あー、今からでも、タイムスリップして、子どもの頃の自分に、今まで仕入れた知恵を教えてあげられたらいいのになー、としみじみ思う私なのだった。