ひまわり先生のひとりごと

2002年9月

2002年9月30日
出張にいったついでに、久しぶりに友人に会ったのだが、友人のお兄さんの話を聞いて、いろいろ考えさせられた。

友人のお兄さんは東北の田舎に住んでいるのだが、今度、中国人のお嫁さんをもらうことになったそうだ。お二人は見合いで、お嫁さんは、日本語がまったくわからないという。田舎にはお嫁さんのきてがないから、外国の花嫁さんをもらうって話は、雑誌などでもよく聞くけれど、実際に友人のお兄さんが・・・と聞くと、やっぱりビックリする。

さぞや大変だろうなあ、と思って話を聞いていたのだが、大変は大変だけれど、それはそれで幸せなのかも・・・と、最後には思った。


なぜかというと、「言葉も話せない。風習も、生活もまったく違う」ということが前提だから、お嫁さんがとっぴなことをしても、

「まあ、しかたないね」
で、すべて済まされてしまうらしいのだ。そして、どんな些細なことでも、一つ一つ、
「これは、こういうこと。あれはこういうこと」
と、相手が理解するまで、とことん話をすることが大切になってくる。だから、嫁姑問題のみならず、普段の生活の中でもありがちな、

「なんで、こんなこともわからないの! 一体、どういう育ち方をしてきたんだか・・・」


という文句が、一切でないらしい。そして、日本人のお嫁さんをもらえば、当たり前にやってもらえるようなことでも、「できなくて当然」なので、一つでも、二つでも、できただけで、

「よかったねー。わかりあえたねー」
と、手に手をとって喜び合えるらしい。

最後に友人が言っていた。

「長年、夫婦をやっていると、いつの間にか、お互いへの思いやりっていうものが欠けちゃって、「あれもしてくれない。これもしてくれない」と、不平不満ばかりを言うようになっちゃうけど・・・。

人と人とが仲良くやっていく秘訣って、相手への思いやりの心をどのくらい持てるかってことなんだなあと、兄夫婦を見ていて思ったわー」

 
私も、最近、しみじみ思う。
「自分が人からどう見られるか、人からどのくらい信頼されているか、人からどのくらい愛されているか・・・と、人の愛情をはかる暇があったら、その分、自分がもっともっと、人を愛せばいいんだよなー。

相手が自分のことをどう見ているか、どのくらい信頼して、愛してくれているかにかかわらず、誰に対しても、自分が注げる限りの信頼と愛情を注ぐことに集中していれば、自分の心の中は、いつも、幸せで一杯になっているはずなんだよねー


もし仮に、相手が自分に害をなすような人で、好きになれなくても、好きにならないままでも、相手に対して、自分ができる限り愛情深く接することはできる。


相手を好きになれない時は、無理して好きにならなきゃいい。それでも、それなりの愛情を注ぐことは、自分が決意すればできることだ。


死ぬまでの間、どのくらい愛情深い人間にまで、自分を育てていけるか・・・それが、人生の課題かもしれないなー」

 
死ぬまでに、世の中全部の人を「この人は私の人生にとって最高に大切な人」と思えるくらいに大切にできるような人間になれたらいいな。


(おまけ)

今、日経新聞の夕刊が届きました。
す、すごい!
カ、カラーで、一面に載ってる!!!
いろいろ新聞に載ったけど、全国紙、カラー、一面っていうのは初めてかも。ちょっと感動!
2002年9月25日
豊かさについて


最近、「豊かさってなんだろうなあ」と思うことが、多々あった。


講演で、たまたま先日、隠岐島にいったこともあり、古きよき日本を感じたことがきっかけかもしれない。


思い返してみれば、昔は、隙間風ピューピュー吹いているような古い家に住んで、トイレなんかもポットントイレで、トイレットペーパーだってなくて、井戸水を使う生活だった。現代に比べたら、随分、貧しくて、清潔感にかけるような生活だったのかもしれないけれど・・・。


でも、その分、あのころは、MRSAなんて、ややこしい院内感染なんかもなかったはず。院内感染って、もしかして、不自然なまでに清潔にこだわり始めたことが、生んだひずみなのかなーと思う。


隠岐島では、一山を完全に削って、新しい飛行場を作っていました。その土砂が、海に捨てられて、魚がどんどんいなくなっているそうだ。周辺の山にも、樹の病気が出てきているとか・・・。住人の中には、

「飛行場ができたら、確かに、便利になるんだけど・・・。自然が破壊されると、いろいろなしわ寄せが起こる気がする。阪神大震災って、もしかして、不自然に埋め立てを繰り返して、人工的に自然をいじってしまったことへの、自然からの報復なんじゃないかと思うことがあるんですよ」
 と、おっしゃっておられる方もいるそうだ。思わず、映画「風の谷のナウシカ」、「未来少年コナン」を思い出してしまった。いつの日か、本当に、人間の文明が、地球全体を狂わせてしまうこともあるのかもしれない。

人間の体も、自然の摂理に反して、最先端医学でいじれば、いじりまくるほど、ややこしいことになってしまうことも少なくない。便利なことが増えると、困ったことが必ず、生れてくる。世の中の法則って、そういうものなのかもしれない。
今の時代、「自然に生きること」は、ある意味贅沢になっている。どんどん、生活が便利になって、文明が発達していくことが、本当に豊かって言うことなんだろうかと、つくづく考えてしまう。
 


悟りについて

「いろいろなことを悟った「立派な人」になることは、とっても素敵なことだ。世の中すべての人が、一日も早く、素晴らしい悟った人になれれば、世界は幸せになるのに」
 と、昔、よく考えた。

でも、近頃、

「困った人たちがいるおかげで、自分自身を振り返らせられたり、考えさせられたりすることって、多いなあ」
と思うことが多々ある。自分の人生に、悩み事を振りまいてくれる「困った人々」が、そのときどきに現れてくれなかったら、学べなかったことはたくさんあった。成し遂げられなかったこともたくさんあった。

そう考えると、ふと、「誰だって、悪役はやりたくないのに、あの人は、私が何かを学ぶために、たまたま、私の人生の中で、悪役を買って出てくれた人なのかもしれないなー」とか、「私にいろいろなことを教えてくれるために、悟らずにいてくれていたのかもしれないなー」なんて、考えることがある。


そう考えると、「困った人たち」にも、「ありがとう!」と言いたい気分になれるから、不思議なものだ。


また、患者さんの中には、「こう生きられれば、楽になれる」と頭の中では、わかっていながらも、あえて、複雑怪奇で苦しい道を歩いてしまう人もいる。私としては、その人の人生にアドバイスはできても、その人の人生丸ごと代わってあげることはできないだけに、こういう人を見ているのはとても辛い。そんなときには、


「きっと、苦しんでいるこの人と出会うことで、救われる人がこの先、この人の人生に現れるのかもしれない」

と、思うことにしている。

そう思うのは、実際、私自身、「悟りを開いている人の優しい言葉」よりも、「地獄の中で、もだえ苦しんでいる人たちの姿」に救われたことが、多々あるからだ。


そんな風に考えると、世の中には、いろいろな人が生きていることが大切なんだなあと思える。どんなはちゃめちゃで救いようのないような人生を歩いているように見える人でも、

「この人は、私の人生にとって、絶対必要不可欠な人です」
といってくれる人の、一人や二人くらい、その人の人生に現れるのかもしれない・・・と思う。

2002年9月9日
先週、非常勤で勤めに行っているホスピスで、40代前半のとても可憐でかわいくてきれいな女性の患者さんが亡くなった。笑顔がとても素敵な人だった。

おなかの表面に腫瘍ができてしまって、そこから、便がとめどなく流れ出てしまうという悲惨な中にありながら、いつも、物事を前向きに捉えようとして、自然で無理のない笑顔を絶やさずにいた。他にも、いろいろ辛いこともあったようにも見受けるのだが、無理なく、上手に、自分の中で悲しみを消化しているように思えた。なかなか、あんな生き方はできない。

彼女は亡くなられる2日前に、栄養不良のために、どんどん小さくなっていった「おなかのがん」を見て、「小さくなって嬉しい!!」と、花のような笑顔を浮かべて、ニコニコ笑っていた。そして、2日後、静かに、静かに、眠るように息を引き取ったらしい。本当に、まるで、酔芙蓉の花が、一夜でぱっと散るような美しい最後だった。


彼女の死後、私と看護婦さんたちは、

 「彼女は、もしかすると、「若くして、病気にかかっても、こんな風に、少々の不幸はあっても、幸せに天寿を全うする方法があるよ。心優しい人は、幸せに死ねるんだよ」
 と、人々に伝えるために、若死にしたのかもしれないね。
死ぬときは、あんな風に死ねたらいいよね」
なんて話をした。

彼女の死で、心の琴線が響きやすくなっていたせいか、9/7は、一日、感動で泣きまくってしまった。

まず、日中、お能を見にいって、泣いた(詳しくは、お能のページ参照)。そして、夜は、「北の国から」を見て泣いていた。


以下の話は「北の国から」を見てない人にはピンとこない話でごめんなさい。

 
「北の国から」を見ながら、医者の私はまず、
「中畑さんの奥さん、なぜ、がんにかかったのかなー」
と、考えた(ドラマなんだから、どうでもいいことなんだけど・・・)。

病気になるには理由がある。だんなさんとの仲はうまくいってるから、それが原因じゃなさそうだ。そうなると、娘が結婚してしまうことかなあ。それとも、がんばり屋で、年を考えず、体力以上にがんばってたのかなー・・・とか。


次に、奥さんが亡くなって、打ちひしがれていてる中畑さんを見て、

「幸せな夫婦だったんだなあ。こんな風に、最後まで、心が通じ合って、「別れが辛い」と思いながら、死に別れる夫婦って、今どき少ないよなー。夫婦の片割れが死んだとき、ここまで、心底嘆けるって、幸せなことだなー」

と思いながら、さらには、

「この後、中畑さんは、どうやって生きていくんだろう」
と、ドラマの中のことなのに、とっても心配になった。
実は、「仲のいい夫婦の片割れが死んだ後、それでも、幸せに生きられる究極の方法」は、10月に発売される本に書いた。でも、その「究極の方法」が実現されず、それでも、片割れをとても愛していたら、どうやってその先、生きていくんだろう・・・と、考えるととっても切ないものがある。

でも、あんなに最後の最後まで、愛しぬいて、寄り添い合える相手とめぐり合えた人生って、それだけで幸せだと思う。そこまで恵まれていなくても、せめて、離れていても、お互いを死ぬまで思いやれるような相手にめぐり合えれば、それだけでも、とても幸せなことだ。

 
ところで、純と蛍のなにげない兄弟の話は、我が家の姉弟の間で交わされる話に、合い通じるところがある。

子供というものは、とかく、両親に対して反発を感じるものなのかもしれない。それはドラマの中のセリフにもあったけれど、両親の血が確実に自分の中に流れているということは、否応なく感じるから・・・というのは、一理あるような気がする。

両親の性質をどのように統合して、自分の中で、肯定して、自分の血や肉にしていくかということは、すごく大事なことだなあと、あらためて感じた。

それから、家族って、なにげない会話を十分にしないために、いつの間にか心が通い合わなくなってしまい、どうにも関係の修正がつかなくなってしまうことってあるような気がする。大事なことは、わかっていても、口に出して、伝え合うことって、大事だなあ、としみじみ思った。


ついでに、五郎さんのように、「人の目を気にせず、家族を愛する」って、できそうで、できないことだと、しみじみ最近思う。

ドラマの最後に出てきたセリフじゃないけど、生きるのに必要なことは、お金でも、地位でも、学歴でも、世間の常識でも、なんでもない。
生きるのに必要なものは、ほんの少しなはずなのに、それを忘れてしまっている人が、なんて多いことだろうと、しみじみ考えさせられた時間だった。