ひまわり先生のひとりごと

2002年6月

2002年6月24日
怪我の功名

 やっと、今週に入って、どうにかこうにか、普通に動ける一歩手前まできた。先週も傍目には普通に動いていたのだが、かなり調子は落ちていた。やる気は出ないわ、感は鈍るわ・・・気がつくと、ボーっとしているわ・・・。

反面、よかったこともある。あまり気が回らないので、マイナスの気も受けないことだ。調子のいいときは、相手のマイナス感情をまともに受けるのだが、調子が悪いと、
 「あー、この人、今日は嫌な気分なのねー」
くらいしか感じられない。それでも、仕事は十分対処できることもわかった。思わず、「感受性が鈍ってくると、生きるのって、楽になるかもね」とか、思ってしまった。

ところで、体調が悪かったせいか、ホスピスの患者さん達と、妙なところで話が合った。患者さんが、

 「調子がよくなったって、家族に言ったら、早速、「じゃあ、旅行に行こう!」って言うのよ。無理して旅行にいって、また具合が悪くなったら、辛いのにねえ。たぶん、家族は思い出を作りたいのよね。でも、具合の悪い私の身になってみれば、それどころじゃないんだけどねー」

といわれるので、思わず私も、

「そうですよねー。具合が悪いのに出かけるのって、車に乗るのも、電車に乗るのも大変ですよねー」
と、力を込めて答えてしまった。
そのあと、ナースステーションに帰ってきた私は、さらに看護婦さんたちをつかまえて頼み込んだ。

「あのね、私、たぶん将来的は膵がんになると思うから、その時はこのホスピスに入るからよろしくね。でね、その時は、『ベイブリッジに行こう』とか、『家族旅行に行かれたら?』とか、絶対に言わないでね。私、乗り物、超苦手だし、旅行も好きじゃないから。

入院したら、マンガの本読んで、編物とか、機織なんかしながら、部屋にこもりたいだけ、こもるの! 散歩も誘わなくていいからね」

看護婦さん達はけっこう驚いたらしく、

「へー、先生って、フラメンコやったりお仕舞やったりして、いつも元気印だから、具合悪くなっても、踊ってるかと思ったのに・・・。けっこう、家っ子なんですね」
と、目を丸くしていた。

確かに、今でこそ、あちこち飛び回っているけれど、基本的に私は家にいるのが大好きだ。大学の時も、暇な時はずっと部屋で編物とお絵かきをしていたし。

それに、お仕舞やフラメンコは好きだけれど、こうした趣味は、今現在、私の中では、「がんばって、上手にならねばならないもの」になっている。だから、具合の悪いときには、がんばる体力がないから、頭はやりたくても体がついていかない・・・というわけ。
逆に、仕事は何も考えなくても反射的にできるし、相手自身が本来持ってるエネルギーをちょこっと加工し直して返せばいいだけだから、エネルギーも要らない。ついでに、相手が元気になって帰っていくと、その「元気エネルギー」の分け前に預かれる。こんなに楽しくて、ストレス解消になるものは、他にはない。

やっぱり、具合の悪い時は、仕事をするのが一番!



理想が高いと大変


最近、講演会でもよく話すのだけれど、「理想の高い患者さんは損をするなー」と思う。

ちなみに、ホスピスにはこんな大騒ぎを巻き起こす患者さんがよく入院してくる。
「ホスピスだったら、私の希望をすべて叶えてくれるべきだろう? 立派なホスピスとは、もっと親切なもんだ! ここを立派なホスピスにするためにも、院長や行政機関に投書してやるっ!!!ありがたく思え!!!」

と、自分の頭の中にある「理想のホスピス像」と寸分違わぬケアが受けられないと、文句を並べ立てるのだ。ちなみに、こういう問題を起こすのは、たいがい、知識レベルが高くて、熱心な患者さんだ。たぶん、本で読んだ知識で「ホスピスはこんなところ」と思い込んでしまうのだろう。確かに、たいがいの本には現実のドロドロした問題点は書かれていないから、無理もない。


でも、残念ながら、理想と現実はかなり違う。想像上の世界にしかない「理想卿のホスピス像」を求められても、申し訳ないが、現実世界では対応しかねることがある。

 それでも、昔は、理想を求められると、「私たちの力不足なのでは」と思って、必死に限界まで努力をしていた。ところが、そういう患者さんに何度も出会ううちに、
「理想が高すぎる人は、どんなにこちらが誠意を見せても、満足することなく、「もっと、もっと」と要求する」
ということがわかってきた。

しかも、そうした患者さんをあまりにも自由奔放に振舞わせてしまうと、医者はもちろんだが、看護婦がボロボロに疲れ果ててしまうし、他の患者さんへのしわ寄せがものすごくでてしまう。なので、最近では、こういう患者さんには、話をきっちりつけることにしている。


「あなたの気持ちはもっともだし、とても熱心に勉強されていることもわかる。だから、ここまでは私たちも誠意を持って努力します。でも、現実はこういう問題があるので、ここから先は、期待には応えられないんです。ごめんなさい」


相手の言い分をきっちり聞きながら、しっかり向き合ってみると、理解力のある人ならわかってくれて、お互いに納得できる妥協点を探し出すことができる。でも、中には、超わがままな人もいて、自分の主張を断固として押し通そうとする人もいないではない・・・。そんな時は、看護婦さんや他の患者さんたちをしっかり守るためにも、心を鬼にして、こういうことにしている。


「もし、私たちの対応が不満であれば、紹介状はちゃんとお出ししますので、別のホスピスに移っていただいてもかまいませんよ」


こういわれて、過去には「有名ホスピスなら、絶対に対応がいいはず」と転院していかれた人もあった。でも、こういう患者さんというのは、転院先でも同じことを繰り返すから、結局、絶対幸せにはなれず、たいがいは、「転院しなければよかった」と、ひどく後悔されるものだ。でも、後悔してみないと、わからないことって、残念だけどあるんだよねー。


やっぱり、幸せになるためには、文句をいうばかりじゃなく、相手を理解するよう努め、時には妥協もしないとね・・・。ついでに、こういう理想が高すぎる人は、どんなに幸せな環境に巡り会っても、必ず不満の種を見つけ出して、自分で不幸の中にどっぷり浸ってしまうから、絶対に幸せには死ねないものだ。


こういう患者さんを見るにつけ、「やっぱ、理想はあまり高くないほうが、幸せになれるよなー」と思う。


ところで、こんな相談もよくある。
「私は、治療は嫌だといってるのに、主治医は受診するたびに、治療を薦めるんです。本当に困ってるんです。どうしたら、主治医が変わってくれるでしょう?」

こういう状況は、迷わず患者さん本人が、転院した方がいい。なぜなら、患者さんの価値観が、お医者さんと全く違っているからだ。価値観が違うことは、人間なのだからあって当たり前。悪いことでもなんでもない。

価値観が違っているにもかかわらず、信頼関係が築けないまま治療を受けていると、自分自身も辛い上、病気の回復スピードも格段に落ちる。ついでに、信頼してくれない患者が外来にくることは、医者にとっても辛いことなのだ。こんな場合、医者はたいがい、
「せっかく、慕ってきてくれているのに、他に行きなさいとはいいにくいし・・・。転院してくれたら、お互いのためにいいのになー」
と思っていたりするものだ。

医者だって、オールマイティじゃない。最先端医療が得意な人ほど、看取るのは下手だ。逆に、私みたいなホスピス医は「最先端の治す医療」には疎い。

最先端医療が得意な人に、「ホスピスと同じように看取ってください」と頼むのは、お寿司屋さんに「フランス料理の極上のフルコースを作ってください」と頼むことくらい、とーっても無理があることなのだ。
だから、医者と価値観や相性が合わないときには、面倒くさがらずに転院した方がいい。

ちなみに、「嫌い。合わない」という感情は、心理学的にみると、
「そのことは、自分にとって害があるよ。自分にはふさわしくないよ。避けた方がいいよ」
という、心からのサインだ。せっかく、心がそんな風に教えてくれているのだから、上手に回避しない手はない。

ちなみに、私はこの教訓に気がついてからというもの、「嫌なこと、苦手なこと」に出会ったら、恥も外聞も意地も捨てて、さっさと上手に回避することにしている。

おかげで、職場も随分転々としたし、1ヶ月しか続かなかった習い事もかれこれいくつあることか。ついでに、フラメンコも、先生が嫌で、数ヶ月で辞めた教室が3つ4つ・・・。
なにしろ、私ってば、けっこうわがまま者。「どんなに有名な先生(誰だー?)だろうが、絶対に自分が好きになれない、尊敬できない先生には習わない!」というポリシーを持っている。

でも、なにごとに対しても、そうしたたゆまぬ努力(?)をしているおかげで、私の身の回りには、大好きなものばかりがあるから、とってもハッピーです!

患者さんにも、「あの先生って、『毎日、好きなことしかしていない』って顔をしているよねー」という人がいるらしいけど、そういう患者さんに、
 「あの先生は好きなことしかしないんだよね。だったら、私としゃべっている時に、あんなに楽しそうな顔をしているのは、私といることも心底から楽しいんだろうなー」
 と思ってもらえれば最高だ。

 (いつものカウンセラー「ルナ子」のほざきも、聞いてやってね)

 
2002年6月17日
医者の不養生

先週は「医者の不養生」で、数年ぶりに持病の慢性膵炎を再発させてしまい、マジで死んでました・・・。ここ数日、絶食&おかゆで過ごす日々。

 「ああ、また、やってしまった・・・。やばいとは思ってたけど・・・」

って感じです。実は、先々週、入稿する予定の原稿300枚を全面書き直しすることに! 

編集さんと話している中で、

 「やっぱ、書き直した方がいいよねー」
という結論に達して、私のほうから書き直しを申し出たのですが、1週間で300枚書くのは、さすがに体も心もきつかったー。ほんとは、そこまで無理しなくてもよかったのですが、早く本にしたい一心が勝ってしまいました。根をつめ始めると、止められない性格だから、ほんとに困ったもんです・・・。

しかも、幸か不幸か、その間、出張が多く、大阪、福島、愛知と飛び回ってたものだから、ただでさえ、乗り物が苦手な私は先週末についにダウン! 週末の出張先の愛知では、講演会の壇上で、ぶっ倒れるんじゃないかと冷や冷やするくらい、吐き気と痛みとだるさに襲われていました。薬も大量に飲んでたのですが、さすがに、薬では体はごまかせなかったって感じです。


十数年前も同じ様な症状だったのですが、こんな状態で、当直、外来と、よくもまあ1ヶ月近くも普通に仕事をしてたなあと思います。その後、まるまる1年、まともに動けないくらいぶっ倒れてたのも、今考えると、納得・・・。もう、あんな根性はないし、あんな体によくない生活は、二度とするつもりはありません。


でも、客観的に考えてみたら、先週末も素直に、

「具合が悪いので、控え室で少し休ませていただいてもいいですか」
って、主催の方に言えばよかったのに、その一言がいえなかったんですよねー。具合の悪い時ほど、余裕がないから、ついつい、昔の「がんばり屋で意地っ張りで甘えられず、弱い部分を見せられないという『困った心の癖』がでてしまう・・・」と深く反省。

さらに、無謀なことに、愛知出張の後には、珍しく旅行計画まで立てていた(旅行なんて、自分じゃまず絶対に計画しない私なのに)! でも、それが不幸中の幸いで、家に帰るよりも、電車に乗る時間が短かった上、家事一切をやらずに済みました。おかげで、ホテルにたどりついたら、死んだように寝ていられたので、結果的には、随分よくなりました。転地療養って感じですね。


ところで、旅行先は、3月に計画を立てながら行きそびれた「伊勢」です。ほんとは、奈良も行きたかったけれど、さすがにそれはやめました。

無理して出かけた旅でしたが、すごく癒されました。なにしろ、昔から、「こういう風景の中にいると、心が休まるのよね」と思っていた景色が、そこここにあったので・・・。しかも、丁度、「月次祭」という年3回の重要儀式の一つまで、見ることが出来ました。

さらに、斎宮歴史博物館というマニアックなところに行って、ここでしか買えないような本をどっさり買い込んで、帰ってきました。きつかったけれど、楽しい週末でした。

でも、体はまだちゃんと復帰してないので、今週は体第一で、なるべく必要以外の仕事は、サボるようにしよーっと。

2002年6月5日
本が待ち遠しい


1月から書いていた2冊の本の原稿がやっと出来上がりました。
「生きるのが辛いなー」と思っている人が、少しでも心が楽になれる本を作りたいと思って、書き始めました。書いていて、
「生きるのが辛くなるのは、一種のマインドコントロールが原因だったんだ。それを治す一番のコツは、たった一つ。プラスの心を増やすこと。でも、そのたった一つのコツを実行するのが難しいし、それが実は、人間が生きている限り続けなければならない修行なのかなー」
なんて思いました。
「ああ、この本があれば、もっと心を楽にして上げられるのにな」
と思う患者さんが、毎日いっぱいこられますから、一日も早く本ができて、心が楽になる人が増えて欲しいなー、と一日千秋の思いです。
でも、出版されるのは秋か冬になりそう・・・。本作りって大変です。
だからせめて、ホームページを読まれている方の中で、生きるのが辛い人のために、少し心が軽くなるアドバイスを!


(アドバイス・・・心を楽にする方法)
心が楽ではない人は、子供の頃、周りの人たちから「人はこんな風に生きるべき」という理想論を押し付けられて育ってきています。大人たちが「立派な子供に育てるために」と思って言うこの言葉の裏には、実は、「理想の生き方をしない人は、生きる価値がない」というマイナスのメッセージが隠れています。
そのため、敏感な子供ほど、知らず知らずマイナスのメッセージを吸収し、
「この生き方も、あの生き方も、その生き方もダメ」
と、世の中の生き方の多くを「いけない」と思うようになります。さらに、こうした「悪い生き方をしている人」「悪い生き方をする可能性がとても高い自分」「世の中のすべて」が大っ嫌いになってしまうと、マイナスの感情の中だけで生きることになるので、辛いのです。
つまり、「生きるのが苦しい人」は、心のバランスがとても悪くて、「マイナスの心」が強く、「プラスの心」が極端に弱い人だともいえます。だから、「心を楽にする」ためには、自分が持っている「マイナス」に釣り合う量の「プラスの心」を育てる必要があります。そのためには、自分が「あれも、これも、それも嫌」と思っているものに対して、「これも、あれもOK。世の中に不要なものは何もない」と言える様になる必要があるのです。
でも、子供の頃から、マイナス思考を強く叩き込まれてきた人ほど、
「これも、あれも、なんでもあり・・・って、考え方は、人間を甘やかして、堕落させる悪い考え方じゃないか!」
と思ってしまいます。だから、プラスの考え方に切り替えることそのものが、怖くてできないんですね。そればかりか、
「立派になるためには、こうならなくちゃダメ。あれもできなくちゃダメ」
と、自分でも、「ダメダメ攻撃」をして、マイナスばかりを増やしているから、ますますプラス不足になってしまいます。
ですから、心が楽になって、本当の意味で「いい人」になるためにも、
「今まで、ダメと思っていたことの、いい点はどこかな」
と考える訓練をするといいでしょう。

また、「過去に受けた心の傷」が治らずに、苦しい思いをしている人は多いのではないでしょうか。「過去の心の傷」が治らないのには、3つの理由があります。
一つは、「何度も何度も思い出すたびに、自分で自分の心を傷つけていること」
二つは、「私が悪かったのかもしれない、と自分を責めてしまうこと」
三つは、「心の傷の手当てをしないままに、心を放り出していること」
 
この3つをやっているために、心の傷は、
「こんな辛いことがあったのに、あなたはそれを忘れるって言うの?!」
と、自己主張するのです。ですから、この3つをやめて、傷を治すことが大切です。

傷を癒す手順は3つです。
1 傷つけた人や物事に、文句をいう
2 頑張った自分を誉める、いたわる。
3 「本当は、こうして欲しかった」ということを考える。あるいは、相手を想像の中で謝らせる。

大切なことは、傷ついた記憶を辛いイメージのままで放り出したり、文句をいったままで終わらないことです。そうすると、マイナスイメージだけがこびりついて、なかなか傷が癒されません。ですから、必ず、嫌な記憶を思い出したときには、プラスのイメージをつけて終わるようにしましょう。