ひまわり先生のひとりごと

2002年5月
心療内科系
最近、がんの相談より、心療内科系の相談の方が、俄然多くなってきた。でも、実際に相談をやっていると、こっちの相談の方がずっと、私の性に合っている気がする。

なにしろ、自分自身で、いろいろな心のひずみの経験をしているから、たいがいのことは、対処できるからだ。経験というのは、ほんとに最高の財産だ。
・・・とは、今なら余裕で言えるけれど、大学時代までの私の精神状態は悲惨なんてもんじゃなかった。思い返すと、あの頃は、狭くて暗くて冷たい監獄の中に「心」が入っていた気がする。

今となっては、笑い話だが、なにしろ、大学の途中までは、喫茶店どころか、マクドナルドにすら、一人では入れなかったのだ。

「そんないかがわしい店(マックのどこがいかがわしいんだっ?!)で、外食するなんて、不良のすること」
って、マジで思ってたから怖い・・・! 

そんな私だったから、学食でたまたま一人でご飯を食べてた時に、同級生の男子学生が、

「この席いい?」
と、前の席に座った後なんて、ドパニック! まる2年半くらい、「私はなんて、ふしだらなことをしてしまったんだ!」って、真剣に悩み続けたもんね。
あれは、ほんと心の病気だったね・・・。

他にも、夜は9時就寝を絶対守るとか、男子棟には行かないとか、何は食べてはいけないとか、生活にはたくさんの決まりがあった。まあ、今思うと、ほとんど、オウム真理教なみに、マインドコントロールされてたって感じ。

お蔭で、心を矯正するのに、相当の時間と苦労を費やしたもんだ。
そして、あのころは、本当に、自分が大っ嫌いだったねー。

それが今じゃ、あのころとすっかり正反対の「まあ、世の中、なんでもありじゃないの」といういいかげんな性格が、随分板についてきた。(でも、ときどき昔の癖が、どうでもいいところで、ひょっと出るんだよねー)
そして、気がついたら、自分がとっても好きになっていた。

ところで、そんな心の経歴があるせいか、心療内科系の相談を受けていると、
 「人間って、「どのくらい自分を好きになれるか。どのくらい自分に自由に好きなことをさせられるようになれるか」という訓練をするために、生まれてくるのかなー」
 と、日々痛感する。結局、相談にくる人はもちろんだが、他にも日々の生活が辛くなっている人たちって、それができなくて悩んでいるような気がする。

実は、「自分を本当に好きになる」「好きなことを自由に自分にやらせてあげる」ということは、すごく簡単なようで、相当難しいことなんだよね。


相談にこられた人に、「もっと自分を好きになれるといいね。もっと、自由に自分のやりたいことをやっていいんですよ」といっても、たいがい、

 「やる気になったらできると思うけど、そんなことをしたら「自分が堕落する」し、世の中の人がすべて、自分のやりたいことをやったら、秩序が乱れます」
とかなんとかいって、なかなかできないものなのだ。

そういう自分の中の「正義」を振りかざしてくる「立派な自分」と、戦わないといけないから、案外、どんなに「やる気」になっても、簡単には「自分を好きになる」「好きなことをする」っていうのは、できないんだよね。そして、立派でありたい人ほど、生きるのは苦しい・・・。

 でも、本当は、「自分を好きになる」と、他人も好きになるから、人の困ることはあまりやらなくなるものだ。だから、あまりにも常識はずれのことはできないから、秩序が乱れるほど、好き勝手も自然にできなくなる。

でも、「私は自分の思う通りに、自由にやっても、大丈夫」って思える程、自分に自信を作るって、相当大変なことだ。「立派な自分」になることも、あきらめなくちゃならないし・・・。

 かくいう私も、まだまだ、自信がなくて迷うし、「立派でありたい」と思ってしまう。ただ、「自然のままに生きる」って、ほんとに難しい。
ま、人間、死ぬまで修行かもね。
ろうそくの長さ
ドラマの名脇役者が40歳で亡くなったというニュースを聞いてびっくりした。ドラマフリークの私は、演技が下手な人気俳優さんより、きらりと光る本物の演技を持った名脇役さんたちが好きなので、本当に残念だ。

ちなみに、「ひまわり」でも、最近、30代、40代の重病の相談が増えている。生き難い時代のせいもあるかもしれないけれど、明日は我が身ということを日々痛感させられる。

ところで、私は元々、「こうしちゃいけない。ああしちゃいけない」というがんじがらめの「枠」の中で生きていた。その「枠」を壊して自由に生きられるようになったのは、ひとえにこの仕事のおかげだ。なにしろ、この仕事をしていると「人間、いつ死ぬかわからない」と毎日考えるし、人は皆絶対死ぬから、どんな人でも受容できる性格じゃないとやっていけない。お蔭で、「枠」を壊さざるを得なかったというわけだ。

その体験から、ちょっとアドバイス。


既成の考え方にとらわれて、行動に迷っている時は、「あと、半年の命だったら、それをするか、しないか」とか、「私がこだわっている考え方は、どこの国のどの時代にも共通する概念か?」と考えてみると、結論がでることもある。


今でも私は行動に迷った時には、この二つのことを自分に質問してみる。そうした上で、なるべく人に迷惑がかからない範囲で(「完全に」は無理だから)、自分の気持ちに正直に生きるようにしている。


ところで、1月から「生」と「死」にまつわる2冊の本を書き下ろしていることもあって、最近、「自分がこの世に生まれてきた目的(意味?)と、果たしたい義務と責任とは?」ということをよく考える。丁度、この1年くらいの間に、自分が今まで歩いてきた道や関心をもっていたことのすべてが、一つの方向に向かっていることが見えてきたからかもしれない。

たぶん、今書いている2冊の本が仕上がれば、生まれてきた「義務と責任」のほとんどは、果たしたことになりそうだ。あとは、そこそこの義務を果たしながら、「生きる目的(意味)」が終わった時が、自分の人生の終わる時なんだろうなあ・・・なんて、考える。

限りある命だから、生きているときにしかできない生き方で、悔いのないよう、一日一日を大切に、心を込めて生きたいものだ。



仕舞が好き


お能を見に行っているうちに、「どうやら私は、お能より、お仕舞の方が好きらしい」と思うようになっていた。「なんでだろう」と、ずーっと考えていたのだけれど、どうやら「お仕舞」の方が、私のやりたいことに近いことがわかってきた。

他の舞踊に比べて動きが単純なのに奥深い。ストーリー性があって、短いから飽きがこない。着物に袴という質素ないでたち。演者の心の移り変わりが味わいやすい・・・。

 仕舞のそんなところが、私は気に入っている。

おそらく、私はお仕舞のような感じで、しかも形式にとらわれずに、人前で舞ってみたかったような気がする。それに気がつき始めたのは、去年の12月に友人の忘年会に、たたみ1畳分ほどのスペースで、自分で謡いながら(無謀だ・・・)「班女」のお仕舞を舞った時だ。それが、とっても自分らしい感じがしたのだ。


以来、自分がやりたかったことってなんだろうと、ずっと考えていて、やっと、

 「ああ、私は能楽堂の舞台より、こういう一般の人々の前で、形式にとらわれずに、仕舞のような舞を舞うのが好きなのかも。その日の客層にあわせて、「今日は、子供を亡くした人がいるからこの曲」「今日はお祝いだから、この曲」「今日は、追悼の想いをこめてこの曲」と選んで舞って、観客の心を慰めたり、喜びを分かち合ったりすることが、楽しいんだなー」
というところに落ち着いた。

やれやれ、自分のやりたいことって、案外自分自身じゃ、なかなかわからないものね。


誕生
弟夫婦のところに女の子が生まれた。
晴れて私もおばさんだ。4日間の難産の末の誕生。ママは、妊娠中も、つわりや貧血が大変で、本当に大変な出産だった。だから、弟と一緒に、

 「こんな苦労して、みんなに心配かけて、やっと生まれてきてくれたのだから、自殺なんてされた日には、ほんとに親は泣くに泣けないよねー。命を大事にしてくれなきゃ」
なんて話をした。

でも、自殺を考えたくなるくらい苦しいとき、「自分は愛されて生まれてきたんだ」と思えることだけでも、自殺を思いとどまれることはあるに違いない。私自身も、自殺を考えたときに、誕生アルバムの横にあった走り書きを読んで思いとどまることができたし・・・。なので、誕生のプレゼント代わりに、姪っ子に向けて、手紙を書くことにした。



結奈ちゃんへ
生まれてきてくれて、ありがとう。
あなたの誕生をパパもママも、パパのおじいちゃんも、ママのおじいちゃんおばあちゃんも、おばさんやおじさんたちも、みんな心待ちにしていました。
 あなたは、4日間もなかなか出てきてくれなかったので、
「おなかの中で、苦しい思いをしてないだろうか。無事に生まれてきてくれるだろうか」
 と、みんなで心配したものです。だから、生まれてきてくれたときには、みんな、とってもほっとしました。
 結奈ちゃんは、ママのお腹に宿ったときから、たくさんの人に愛されて、望まれて生まれてきました。
 長い人生の中には、苦しいことや辛いこともあるかもしれません。そのときには、あなたが、こんなにもたくさんの人に愛されて生まれてきたのだということを思い出して、乗り越えてくださいね。
結奈ちゃんが幸せであることが、周りの人にとっても一番幸せなことです。
 結奈ちゃんの人生が幸せいっぱいであるよう、心から祈っています。
            純子おばちゃま、由紀子おばちゃまより


生まれてきたばかりのときには、こうして、「ただ、生きていてくれればいいよ」って思っているのに、人間は欲深いから、成長するにしたがって、だんだん、「こんな風に生きて欲しい」と期待が出てきてしまう。そして、その期待がその子の人生を狂わせてしまうことだってあるだろう。

姪っ子の誕生に際して、「そうした条件をつけず、いつまでも見守り続けられる自分でありたいなー」とあらためて思った。

「あなたは何をしていてもあなただよ。私は、あなたの全部を愛しているんだよ」
 と、いつも言える自分でいたいもんだ。そのためにも、日々の心の修行が大切ね。

ところで、私は昔、妊婦さんが尋常ではないくらい大嫌いだった。妊婦さんを見ただけで、惨殺してしまいそうな衝動に駆られていたし、産婦人科の授業で出産のビデオを見せられたときには、エイリアンがお腹の中に宿って、宿主の生気を吸って生まれてくるような気がして、何日も悪夢にうなされたものだ。そして、そんな風に感じてしまう自分がめちゃくちゃ恐ろしかった。

たぶん、その頃まではずっと、

「人間は生まれてきたら、不幸になるから、生まれてきてはいけない。人間をこの世に生み出す人間こそが、諸悪の根源だ」
と思っていたからだろうと思う。今思うと、一歩間違えれば、完全に発病していたんじゃないかと思う。

今は、思い出そうと思っても、あの頃の妊婦さんへの憎しみと嫌悪感は半分くらいしか思い出せない。まあ、あんな激しい感情を持っていたら、生きていけないから、忘れてよかったのだが、時々、あの感情を忘れてしまったことは、あの頃の辛かった自分を忘れてしまったようで、かわいそうになることもある。


ところで、私は、今から結婚して子供を産もうという気は全くない。年も年だし、仕事と家庭と両立できるような器用な性格ではないし・・・。かといって性格上、仕事をやってないと生きていけそうもない、という理由からだ。

でも、妊娠しているときに、妊婦さんがどんな感覚を味わっているのかは、ちょっとだけ興味がある。

自分の体の中に別の生命が入っているというのは、どんな感覚なのか? すごく敏感な人なら、胎児の体だけでなく、その子の魂まで、感じることもできるんだろうか? もし、感じられるなら、それはどんな風に感じるのだろう。自分とは全く異質なものとして感じるのか、自分と混じったように感じるのか・・・。

いずれにしても、自分の体の中に自分以外の存在が感じられると、別の命と一緒に生きているような気持ちになれて、とても幸せだろう。


それにしても、ふと気がつくと、「子供を産むって、大変だろうけど、とっても幸せな体験かもね・・・」という目で、妊婦さんを見るようになった自分が嬉しいな。

最近、ユング心理学の本を読んで、夢分析にはまっている。もともと、あまり夢は見ない方なのだが、分析のために努力してみると、結構、夢も見れるもんだ。それに、自分を客観的に見る機会になって、ちょっとした発見があって面白い。でも、まあ、飽きっぽい性格の私だから、いつまで続くかわからないが・・・。

ところで、夢分析をやっていて、子供の頃に「特定の夢」をよく見たことを思い出した。しかも、日中のストレスが反映された夢とは、ちょっと種類が違うことを子供心に感じていた。不思議に思って、絵に描いたこともある。

一つは、「両側に深い緑がある山間かどこかの石段を上っていくと、日本家屋がある。そこで、誰かが死んだのか、病気にかかってるらしく、悲しくて、ずっと泣いている」という夢。あと、どうも同じ日本家屋らしいのだが、「誰かと藤(?)の花見をしている」とか。決まって、はっきりとした同じ場所なのだけれど、現実の中で見覚がある場所ではないんだよね・・・。

ところで、「夢」といって思い出すのは、曽根まさこさんのマンガ「夢の園のミア」だ。ストーリーは、「ミアという少女が、夢の中でマリオンという男の子と青い鳥を一緒に探す。夢の中での「青い鳥探し」は、10年くらい続き、幼い二人は夢の中で成長する。そして、紆余曲折の後、現実の世界で会うことができ、二人はずっと同じ夢を見ていたということがわかる」という、かわいい話だ。

この話じゃないけれど、デ・ジャ・ヴュってことで、いつかあのよく見た日本家屋の風景の場所に出会えるといいな。

気分転換
ここ数年で知り合った人たちは、私のことを、「とっても楽天家で、前向きで、幸せそうな性格」だと思うらしい。

でも、もともとは、まるっきり逆の「不幸体質で、すごい荒い気性」だった。つまり、今に至るまでには、随分「ゆがんだ心」を矯正し、「気持ちよく動く心」にするために、相当、「心の筋トレ」に時間と努力を費やしたわけだ。そして、その経験が、今医療相談の仕事にとても役立っている。

ところで、相談者の中には、「どんなに努力しても、不幸体質から抜け出せない」という人も多い。こういうケースのほとんどは、「心」の筋トレの方法が微妙に間違っているか、日々の努力の積み重ねが足りないかのどちらかだ。なので、今度、秋に、心のトレーニング本を筑摩書房から出すので、興味のある人は読んでくださいね。

ところで、本来、不幸体質の私は、かなり気をつけて心の調整をしていないと、ちょっとした拍子に、落ち込みのドツボにハマって、身動きが取れなくなる。まあ、それでも、訓練のお蔭で、昔ほど、ほんとにひどく落ち込むことはなくなったが・・。
でも、ここ2日、心の一部分がブラックホールにハマって、それを立て直すのにちょっと苦労した。あれこれ、自分なりに、いろいろな心理学的テクニックを試してみたのだけど、今一スッキリしなかった。

ところが、今朝、すっごくいい夢を見たら、それだけで途端に元気になった。

ああ、やっぱり、私って、根は単純な性格だったのかも・・・。
とりあえず、神様、素敵な夢をありがとう!
2002年5月1日
お能のページにもちょっと書いたけど、お能の世界では、
「二千番以上見ないと、あれこれ言ってはいけない」
と言われているんだそう。真意は、初心者の私にはよくわからないけど、医療と照らし合わせて考えると「素人は、あまり「知ったかぶり」をしちゃいけない」ということなのかなー、とも思う。

ちなみに、病院には「知ったかぶりをする患者さん」が、とってもよく来る。中には、
「どうして、先生はこの治療をされないんですか? OOの本には、この病気には、この治療がベストって書いてありました! 最新の治療をしてくれる気がおありなんですか?!」
なんて、言う人も・・・。でも、医者相手にそういうことを言うのは得策じゃないと思う。だって、たいがいのお医者さんは、とーってもプライドが高いからね。

確かに、本の知識は参考になるけれど、紙の上の知識と、実際の生の医療には、ズレがある。だから、腕のいい医者ほど、患者さんの症状に合わせて、経験で匙加減をしてくれる。でも、「教科書どおりじゃない!」と患者さんから文句を言われちゃうと、医者は、
「フン、だったら、自分が医者になればいいじゃん! もっといい方法知ってるけど、教えてやらないもんねー!勝手にしろ!」
と思って、結局、親身になって治療をしてくれなくなることもある。
やっぱり、知ったかぶりはしない方がいいし、医者に何か尋ねる時には、言葉は選んだ方がいい。

でも、ホスピスとか、医療相談とかをやってると、そんなことは言ってられない。なにしろ、こういう手の患者さんの方が多いから。「勝手にしろ!」と、こういう患者さんを放り出しちゃうと、話にならないんだよね。
でも、「やれやれ、またこの手の患者さんかい」と思いながらも、じっくりサシで話をしてみると、案外、いろいろ考えさせられることもある。実は、知ったかぶりをする患者さんって、とっても熱心で、真剣に物事を考えている。だから、
「なるほどー。随分、勉強されたんですね」
と、相手の努力を認めた上で、
「ただ、実際の現場では、こういう例外もあるんです。教科書通りがいい訳でもないんですよ。長年やっていると、ある種の経験的な感で、「この人には、こっちの薬の方が効きそう」って、思うこともありますしね。そんなことも考慮した上で、もう一度、主治医から薦められた治療を考え直してみてはいかがですか」
と、丁寧に教えてあげると、心を開いてくれたりするものだ。

ついでに、私は、患者さんの突拍子もない意見や考え方を聞くのが大好きだ。なぜかというと、医療を全く知らない、真っ白な目だから出てくる発想が、そこここに感じられるから。それに、患者さんの話を聞いていると、プロの医者から見て、「あの人は、本当に、すごく立派でいい医者だ」と思う人が、必ずしも、患者さんにとっては「いい医者」ではないというのも面白い。さらに、不思議なのは、少々腕は悪くても、患者さんに信頼されている医者のほうが、結果的に、患者さんの病気は治りやすくなる。そういう「理屈じゃない生の医療現場」を見ていると、
「結局、医療っていうのは、誰のためでもない、患者さんのためにあるものなんだなあ。医者から見ていいものより、患者さんから見ていいものが大事なんだろうな。
それに、プロになると、「素人が何を考えているか」ということについては、「素人」なっちゃうのね・・・」
としみじみ思わされる。

ところで、世の中って、なにごとも共通する部分があるもんだ。だから、お能の世界も、医療と似てたりしないかな、とひそかに思っているんだけど、それは、二千番見ることができたら、もう一回考えてみることにしよう。
でも、不勉強で根性なしの私には、一生、無理かも・・・。