ひまわり先生のひとりごと

2002年4月22日
離れて看病していると・・・

出張で講演会などにいくと、よく、
「病気の親を看病してあげたいのですが、離れて住んでいるので、なかなか手伝いにいけなくて・・・。どうしたらいいでしょう?」
という相談を受ける。

確かに、なかなか飛んで行ってあげられない人ほど、

「一緒に住んでいたら、あれもこれも看病ができるに違いない」
と、思うに違いない。確かに一緒に住んでいれば、できる看病はたくさんある。

でも、私は、母親を看病していた経験から、「案外、一緒に住んでいる方が、優しくなれないときもある」ように思う。


 私「毎日顔を合わせてるんだから、言いたいことがあれば言ってくれるだろう」

 母「毎日見てるんだから、言わなくても、察してくれるだろう」
とお互い勝手に思い込んで、コミュニケーション不足になったり、

私「私だって、忙しい中、いろいろ都合をつけて看病してるんだから!」

 母「もうちょっと、こういうところに気を配ってくれればいいのに!」
なんて、言い合ってみたり・・・。

そして、24時間一緒にいると、かえって、お互い行き詰まってしまい、「あー、病人のことを考えないですむ時間が欲しい!」などと、思ってしまうことも、悲しいかな、あるものだ。でも、離れている人は、そばにいられない分、

 「もし、そばにいったら、あれもしてあげよう。これもしてあげよう。こんな言葉もかけてあげよう」
 と、ずっとずっと、患者さんのことを愛情を込めて、優しい気持ちで、日長一日考えているに違いない。

それって、もしかすると、「一緒にいて痒いところに手が届く看病ができるけれど、キリキリした心で患者さんのことを考えている」より、幸せなことかもしれない。もちろん、一緒にいて、なおかつ、愛情を込めて考えていられれば、それにこしたことはないけれど・・・。


そのせいか、病院の患者さん達も、

「同居している家族よりも、たまにきてくれる、遠くの家族の方が、私のことを大切に思ってくれているような気がする」
なんて言う人は少なくない。
 
考え方によっては、案外、「遠くにいる」のは、とーっても幸せなことのようにも思える。だから、遠くに住んでいるご家族には、こんなアドバイスをすることにしている。

「遠くに住んでいる人には、遠くに住んでいる人にしか出来ない看病の仕方があると思いますよ。

一緒に住んで看病していることを考えたら、一日、15−30分くらいの時間を作ることはできるでしょう? だったら、決まった時間に電話をかけてあげるとか、電話に出るのが大変なら、毎日一枚葉書を書いてあげるとか・・・。文を書くのが苦手なら、絵葉書を送ってもいいでしょう?
あるいは、「毎朝、起き抜けの15分間は、『お父さんの時間』って決めてるの。お父さんが元気で幸せに一日過ごせるようにって、祈ってるからね。『ああ、今ごろ、祈ってくれてるのかな』なんて、ときどき想像してみてね」なんて、言って差し上げるだけでも、闘病の励みになるのではないでしょうか」

100%満足のいく幸せなんて、そうそうあるものじゃない。
どんな生活にも、欠点の一つや二つはある。でも、ちょっと視点を変えて、
「今のこの状況の中でしか、味わえない幸せってなんだろう。幸せに過ごすために、今、努力できることってなんだろう」
と考えたら、案外、幸せはたくさん、たくさん見つかるんじゃないだろうか。


鈍いって、幸せ?

「都合の悪いことはすぐ忘れる。人の気持ちに鈍感・・・というのは、幸せをつかむための、一つの才能だよね」
と、ある日突然、妹が言い出した。

「なるほど・・・」と、納得した。
確かに、ひまわりに相談にこられる「悩みを抱えた人々」を見ていると、ほとんどが、
「感受性豊かで、人の気持ちに敏感。気になることがあると頭にこびりついて離れない」
というタイプの人が多い。

感受性が豊かな性格は、元気な時にはいいけれど、具合が悪い時には、相手の悪意をもろに受け取って、傷ついたりしてしまいやすい。


また、物覚えがよくて嫌なことがなかなか頭から離れないと、頭の中には、不幸がどんどんたまってきたりする。


「複雑なことは、感じないし、考えられない」という性格の人のほうが、絶対幸せになれるのは、保障できる! 


世の中の人って、「鈍感。忘れっぽい」というのは、ついつい、悪い方に評価しがちだけど、やっぱり、これって、一種の才能だと思う! 

「敏感で、物覚えもいいけれど、不幸もいっぱいある人生」と、「鈍感で、忘れっぽいけど、幸せいっぱいの人生」。あなたなら、どっちを選びますか?・・・って感じかな?

2002年4月17日
あたりまえ

医療相談をやっていると、「あたり前」のことが、毎日毎日、「ありがたいことだなあ」と、振り返らされるのは、とてもいいことだ。

健康であること、仕事があること、学校を卒業できたこと、趣味を楽しむ時間があること、自由に動ける体があること、食事ができること、友人がいること、家族円満であること・・・。


あたり前のことかもしれないけれど、この「あたり前」すら、叶わない人が世の中にはなんて多いことだろう。


「病気で寝たきりになり、職を失った人」「うつ病にかかって、家からでられない人」「家族が次々に倒れて、仕事をやめて、朝から晩まで介護で、自分の時間も持てない人」「精神的に追い詰められて、大騒ぎしたために、友人全員、家族に逃げられた人」・・・。

世の中には、相当すごい状況に追い込まれている人も少なくない。

反面、取り立てて生活の中に大きな不幸はないけれど、現実に不満をたくさんもっている人もたくさんいる。こうした人たちは、「あたり前」の生活が壊れた時に、初めて、「ああ、私は幸せだったのかもしれない」と気がつく。


逆に、相当不幸な状況にあるにもかかわらず、「私より、もっと不幸な人はいる。我慢しなくちゃ。あの人に比べれば、私は幸せなんだから」

と、あえて、脱出しようと思えばできる不幸の中にどっぷり浸かっている人もいる。

「自分が置かれている状況を客観的に見るって、結構難しいことなんだなあ。ついでに、人間って、幸せでいるよりも、不幸の中にいるほうが得意なのかもしれない」と、こういう仕事をしているとつくづく思ってしまう。




目は口ほどにものを言う?

うちのルナ子は実に表情が豊かだ。
ルナ子の目を見ていれば、機嫌がいいのか(かわいい!)、
おやつが欲しいのか(超物欲しそうな目をする!)、
放っておいてほしいのか、
反抗しているのか(すごく憎たらしい顔!)、とてもよくわかる。

多分、感情がストレートだから、わかりやすいのかもしれない。


人間も、ストレートな感情や、「伝えたい」と一生懸命思うことほど、言葉がなくても伝わるものだ。


でも、逆に、言葉を使っても、単純なことが伝わらなかったりするのは不思議だ。


先日法事のときに、お坊さんがお焼香の仕方を丁寧に説明してくださった。要約すると、

「祝言の時のお焼香は一回。法事のときには、かならず2回以上の焼香をするが、念じるのは一回でいい。残りは添え香だから、念じないでくべる」
という話。

とても詳しく説明してくださったにもかかわらず、我が家族は誰も理解してないようだった。なので、

「どうして、あのくらいのことが、理解できないの?」
と、思わず言ってしまったら、

「すごい、タカビーな言い方! だって、あの説明じゃ、わかりっこないじゃん!」

 と、逆に怒られた。

確かに、注意深く参列者の焼香の様子を見ていたら、話を理解していたのはほんの数人だけだったことがわかった(ほとんどの人は、不安げにお焼香しているのが、ありありと態度から見てとれたもんね)。


で、あとで、なぜ理解できなかったのかリサーチしたところによると、「添え香」という言葉がわからなかったのが、原因らしい。


なるほど、人間は、たった一つでもわからないことがあるとそれでパニックになって、その他のことも理解できなくなるらしい。


私も、医療の説明をする時には、なるべく専門用語を使わずに、相手に合わせた言葉を選んで、話すように心がけているつもりだけれど、きっと、理解してもらえていないことも多々あるんだろうなあ、と大反省(だって、ときどき、「どうしてこんなに丁寧に説明しているのに、理解できないのよー!」と言いたくなる患者さんって、たまにいるもの。そういう時って、きっと、私自身、相手のことを十分わかってないんだなーと思う・・・反省、反省)


「専門的なことをわかりやすく説明する」というのは、やっぱり相当難しいことだ。うんと噛み砕いて話して、やっとちょうどいいくらいなのかもしれない。

「もっともっと、忍耐強く説明する努力と工夫をしなくちゃ」と、気を引き締められたと、同時に、自分が聞くほうの立場になったときには、「この点がよくわからなかったのですが」と、聞き上手にならなくては・・・と、反省した一日だった。


2002年4月15日
法事

昨日は、母の七回忌の法要だった。
我が家の場合、法要は、父の満足のためにやっているようなもんだ。子供たちはみな、
「別に、法要なんていいよ。伝統行事が欠かせない由緒正しき家でもないし、亡くなったママさん自身も法事は大嫌いだったし・・・。故人を偲ぶなら、ママさんの好きだった料理を作って、昔のビデオでも見て、思い出話に花を咲かせてあげた方が、ぜったいに喜ぶよ」

と、口を揃えていうのだが、父にとっては「立派な法要をする」ことの方が供養だと思えるらしい。「次は十三回忌だ」と、今から張り切っている・・・。


昔から、一事が万事こんな調子で、父と母子は価値観がいつも違っていた。それでも、

「まあ、法要なんて、ある意味、亡くなった故人のためにやることじゃなくて、残された家族の納得のためにやることだから、父が納得するなら、それはそれでいいか」

と、私たち子供は妥協できるからいい。妥協することが嫌いな母は、この価値観の違いが相当辛かったのだろうなあと思う(父の方は、都合の悪いことは、結構忘れちゃう性格だから、その分幸せだったかも・・・)。


法事から帰ってきて、妹と一緒に、母が若かった頃の8ミリビデオを見た。

ビデオに写っていた私たちより年の若い母は、本当に幸せそうに屈託なく笑いころげていた。思わず、妹と顔を見合わせて、しみじみ語り合った
「ママさんって、あんな無邪気でかわいい笑顔をしてたんだねー。あんな笑顔、見たことなかったよねー。きっと、笑顔を忘れちゃうくらい、辛い事がいっぱいあったんだろうねー」

家族といっても、全然違う人間の集まりだから、価値観は違ってあたり前。それでも、「なるほどー、そういう考え方もあるかー」と思えればいいけど、決定的な部分で価値観が違うと、一緒に暮らすのは大変かもしれない。


先日、ホスピスで出会った70歳くらいのAさんは、

「私の一生で一番幸せだったことは、この夫と巡り会えたことです。また生まれ変わっても、一緒に夫婦になりたい」
と、さらりとおっしゃっていらした。こんな風に言える人には、100人に一人いるかないないか。そんな風にいえる伴侶に巡り会えた人は、それだけでも幸せなことだと思う。

でも、別に伴侶じゃなくても、「ああ、会えてよかったな」と思える人間関係がいっぱいあれば、十分幸せなものだ。私は妹弟とは、次に生まれても家族になりたいと思うし、仲良くしている友人たちとは、やっぱり次に生まれても友達になりたい。


いい人たちに恵まれて、私は幸せだなあと思う今日この頃。


2002年4月10日
幸せになれる仕事の仕方

「自分の好きなことを仕事にすれば、毎日楽しく過ごせると思っていたのに。やっぱり、生活がかかってくると、楽しい仕事もつまらなくなるのかしら・・・。でも、趣味で仕事をしている友達も、同じことで悩んでいるのよね。彼女なんかは稼ぎのいい旦那さんがいて、生活に困らないんだから、嫌な仕事はせずにゆったりすればいいのにって思うんだけどね」
なんて、妹が言い出した。

結構、このテの悩みを抱えている人って、世の中に多い気がする。

趣味にしろ、仕事にしろ、自分がやっていることに疲れたり、つまんなくなってしまう時って、「ワーカーホリックになっている」か、「やっていることそのものよりも、結果に焦点が合っている」ことが多いような気がする。

「休まずに動いていないと、時間を無駄にしてる(怠けている)様で落ち着かない」とか、

「自分では立派な仕事をしているつもりでも、周りの人が「すごいね」って評価してくれるか、目に見える「すごい物」が残らないと安心できない」とか・・・。

こういう「心の癖」を持ってると、絶対、「楽」にはなれない。

のんびり楽をしていると、

「やい!お前、怠けてるだろうっ!それじゃダメだ、ダメだ!」

と、非難する人間が、常に自分の中にでてくるから。
これじゃ、周りの人がいくら、「ゆっくりしたら?」といっても、絶対に楽になりっこない。
こういう時は、自分の中の「批判者」を退治しないと、楽にはなれないものだ。

それから、「評価してもらえないと、満足できない人」が幸せになれないのは、「他人に幸せを依存している」から。

でも、人って、自分と正反対の価値観を持った人のことは、あまり評価しないもの。そして、世の中、自分と同じ価値観の人ばかりじゃない。だから、満足のいく評価をいつもしてくれるとは、限らない。

ところが、他人の評価をすごく気にしている人間ほど、たった一人でも非難する人がいると落ち込むものだ。

趣味も同じ。
私の周りでも、フラメンコやお仕舞を習っていて、苦痛になっちゃう人って、けっこういる。こういう人はたいがい、
「絶対にここまで、達成しないとダメ」とか、
「先生や、周りの人に、うまいって褒められないとダメ」とか、
 「誰よりもうまくなきゃダメ」とか、思いつめちゃうことが多いみたい。まあ、私も、多分にその傾向があるから、人のことは言えないけど・・・。

でも、楽しみって、結果とか評価だけじゃない。

 「わー、こんな新しい自分を発見!」「おー、磨けば、ドン臭い私の体もここまで変わるか」「去年はできなかったことが、今年になったらできた」「これをクリアーするために、どんな工夫をしてみようかなっ?こんな方法を思いついた!すごいじゃん!」 とか。

苦しい練習だって、「これをクリアーすると、素敵な自分になれる」って思えば、苦痛もまた楽しいもの。でも、「立派になるためには、評価されるためには、苦しまねばならない」「こんなに苦しんでもダメだったらどうしよう」とか思うから、辛くなる・・・。


人間関係や恋愛でも同じ。
 「相手とうまくいかない」って相談にくる人の多くは、
 「相手がこうしてくれたらいいのに」
って、幸せを「相手の行動の結果」に求めていることが多い。でも、他人なんて、どうあがいたって、自分の思い通りになんかならない。
相手に求めることよりも、
「こんなことをしたら、相手が喜ぶかなあ」「私がこうしたら、もっと楽しく過ごせるかなあ」「相手の心には響かなかったかもしれないけど、自分なりに努力した自分を褒めてあげよう」
 とか、自分自身の中で満足できることをもっと増やせば、幸せになれる。

「人から評価されることでしか、喜びを感じられない」っていうのは、一種の「心の癖(病気?)」だから、こういう人は幸せになりたかったら、
「自分で、自分のことをしっかり評価して、褒めて、満足できるようになる」
「結果だけでなく、過程を楽しむ」
「あたり前のことをあたり前と思わず、小さい幸せを十分味わう」
って、心の訓練をするといいかもね。

自分で自分を褒めることに慣れてない人は、最初は、「こんなことじゃ満足できない!」と思うかもしれないけど、心の癖も、体の癖と同じでコツコツ訓練すると変わるもんだから・・・。


(そして、今日もカウンセラー・ルナ子が何か、コメントしてます)

2002年4月8日
ベビーラッシュ

週末、久しぶりに、前に所属していたフラメンコのクラスの発表会を見に行ってきた。とってもみんなうまくなっていて、感動したのだけれど、それ以上に感動したのが、結婚ラッシュ、出産ラッシュだったこと!

恵比寿のフラメンコのクラスも、今、結婚ラッシュ、出産ラッシュなんだけど、こっちのクラスまで、結婚、出産ラッシュなんて、凄すぎ・・・。何しろ、この日一日で、5人もの妊婦さんに会ったんだもの! 

数年前までは、どっちのクラスでも、「クリスマスイブだっていうのに、どうして、みんなまじめに、レッスンにきてるのかしらねー」って言ってたのに、この一年の変わりようは一体何?!


そういえば、最近、講演会に行く先々でも、どういうわけか、妊婦さんにご縁がある。いやー、今まで、こんなことなかったのに、不思議だー。

しかし、こんなおめでたい話が続く一方で、なんだか、色気もクソもない話をしている連中も私の周りにはいる。

お能友達のSさん(私と同い年)が先日、

「生理が遅れたから、もうあがっちゃったかと思って心配になった」
 なんて言い出したものだから、私は思わず、大声で言ってしまった。
「いくらなんでも、この年ではあがらないよー!
しかし、悲しい発想・・・。普通、年頃の女性が「生理がこない」って言ったら、別の発想になりそうなもんなのにねー。

実はさあ、うちの妹も、この間、「吐き気がする」って言うもんだから、笑って、

「えっ?!ま、まさか、ルナちゃんじゃないけど、悪い虫がついて、腹の中に、何かいたりしないでしょうねっ!?」
って、冗談でいったら、

「えー、ルナ子、おなかに何か、回虫か何か、ついたの? それで、おなかがデカいんだー」

って、マジで言うのよ!」

といったら、萌ママまで真剣な顔をして、

「え、ルナちゃん、寄生虫がついちゃったの?! それは、虫下しを飲ませないと、いけないわよ」
という・・・・。ああ・・・。

「・・・だからー、「虫」違いだってばー! あー、もう、どうして、私の周りって、こんなに色気もクソもない発想の人たちばかりなんだろう! 


普通、若い女性に、虫がついて、生理が遅れたとか、吐き気がするって言ったら、「できちゃった」って発想以外に何があるっていうのよ・・・。なんだか、私の周りの人たちって、「女」を捨ててないー?!わびしすぎる・・・・」


こんな私たちでも、もしかしたら、フラメンコのメンバーじゃないけれど、数年後には、出産ラッシュになっている?!・・・っていうのは、相当想像しにくい・・・・。


でもまあ、人生、一寸先は、わかんないから・・・ってことにしとこう!