ひまわり先生のひとりごと |
2001年9月19日 |
雑誌「クロワッサン」に、私がお仕舞を習っているところの写真と 記事が載った(9/25日号の151ページだよん。 見てない人は見てね)。 最近、雑誌やテレビの取材を受けることが多くなってきたせいか、 前ほど、雑誌で取り上げてもらっても感動が薄かったりするんだけど、今回の記事を見た友人のメールには、ちょっと感動した。 「記事、拝見しましたよ。着物袴姿で、あんなきれいなお稽古場で、 その時間だけは先生を一人占めしながらお稽古できなんて、 とってもステキなことだね。 素敵に贅沢な時間と空間を過ごしているんですね。 うらやましくなりました」 というような内容だった。 「そういえば、私も先生のお宅に個人稽古で習いにいったばかりの頃、そんな風に思っていたなあ。 なのに、すっかり、それが「当たり前」になってしまって、 感謝の気持ちが薄れてきてたんじゃないかなあ。 何事も、「当たり前」になっちゃうと、嬉しさも楽しさも幸せも、 どんどん少なくなってきちゃうよなあ。 時々、心を引き締めて、「当たり前」と思うことを見直さなくっちゃなあ」 今回は友人の言葉には随分ハッとさせられたけど、 ふとした時に、「当たり前」が実は、「当たり前じゃない」ってことに、 気がつかされるもんだ。 テロがあったり、大地震があったり、噴火があったりすると、本当に、 「今日も目が覚めて、食事ができて、普通に一日が終わる」 っていう、「普通の日常」にすら、感謝を感じさせられる。 どうせ、一日生きるなら、いっぱい、「ありがとう」って感謝の心で過ごしたいもんだ。 |
2001年9月3日 |
最近、「叱るって技術はとても難しいことなんだなあ」と思う。 人から叱られたときに、「確かにその通りです。ごめんなさい…」 と素直に反省できることもあるんだけど、 「なにもそんな言い方しなくたってさあ!すっげーむかつく言い方!!!」 と、ものすごく腹が立ったり、 「ふん!どうせ、私はそんなに立派な人間じゃありませんよーだ!」 といじけモードにはいったりすることは少なくない。 「その違いは、なに?」と、最近よく考える。 で、結論! 「叱る人」の心の中にイライラした感情が混じっていると、 せっかくいいことをいっていても、叱られた相手は「八つあたりされた」 ように感じてしまうのではないかな? あと、叱られた人の「古傷」に触るような、すごく気にしていることについて叱られたときも、むかついたりするのかもしれない。 普段、私達は「感情的に叱られる」ことの方が多くて、 「上手な叱られ方」をしたことがないから、 「叱る=いけないこと、いやなこと」と思ってしまうことが多いものだ。 でも、上手に叱られると、愛情が感じられたりするんだよね。 たぶん、「叱る」時ほど、「叱る」エネルギーの倍以上の「愛情」 というエネルギーを腹の中にどっしりと抱えていないと、 相手の心に響く叱り方にならないのかもしれない。 かくいう私も、上手に叱れる自信があまりないので、 人を叱るのは好きじゃない。 どうしても、叱らなければならないときになると、すごく緊張したり、 どこか感情的になっているときもある。 でも、上手に叱ることができると、誉める以上に相手には、 気持ちが伝わるものだ。 叱り上手になりたいなあ! |