ひまわり先生のひとりごと (2002年11月) 
  2002年11月11日
執着心

「夢分析の話が面白かった」というご意見を頂戴したので、
今日は先日見た変な夢の話を一つ。

 
先日、ディズニーランドのテーマパークのようなところにいる夢を見た。
アトラクションの入り口は、ゴツゴツとした岩山の中央にある洞窟だった。
この洞窟に入るには、入り口の左にあるボックスの中から、
遺跡の鍵を持っていかなければならない。私は、鍵をとってみるのだが、

「なんだか、暗くて怖そうなアトラクションだなー。
一人で入るのもちょっと怖いかも。それに、一人だとつまんないし・・・。
まあ、無理して、今行くことはないか」

と、やめて帰ってくる。

すると、パークの管理人とおぼしき二人の係員がやってきて、

「あなたは、アトラクションの鍵を触ってしまったので、死ななければなりません。
お迎えに来ました。一緒に行きましょう」

と、言われる。私は、
「まあ、生きていることに未練はないから、死んでもいいか。
じゃあ、ついていこう」

と彼らについていくと、テーマパーク内の奇妙な汽車に乗せられる。
この汽車は、普段は、ジェットコースターのアトラクションとして使われているのだが、
ポイントを切り替えると、死刑執行場行きの列車になるらしい。


「よくできているなー。こんな仕組みがあったのか」

と、私が感心しながら、汽車に乗り込むと、しばし走ってたどり着いたのは、
テーマパークの楽屋裏。アトラクションの役者さんやら、係員さんが忙しそうに走り回っている。

「どこで、いつ、死刑は執行されるんだろう」
と、ボーっと待っていると、別の係員が私の担当者のところに走ってきて、
「この人が触ったアトラクションの鍵が見つかったので、死刑は中止になりました」
というではないか。私は内心、
「えー、せっかく、一応覚悟をして、ここまできたのにー。死ねないの? ガッカリ・・・」
と思っている。係りの人から、
「冥土の土産に、今、生きている人たちが、なにやっているか見てみる?」
といわれて、空から、現世の人たちの様子を見に行ってみると、家族は私が死んだものと思って、
「あの、邪魔なマンガの本を全部売ってしまおう」
と、私の部屋の大量のマンガの蔵書をブックオフに売り払っているところだった。

それを天から見ながら、私は

「ちょっと、ちょっと、まだ、私が死んで、何日にもなってないはずなのに、
もう、マンガの本を売り払っちゃうわけ−?! それって、ひどくない?

まあ、売られちゃったものは仕方ないけど・・・。
でも、現世に戻ったら、まず、他のマンガの本はともかく、
「彼方から」と「天よりも星よりも」だけは、買い戻さなくっちゃ!」

と思っている・・・というところで夢はおしまい。

という夢の話を、妹と、占い師をやっている精神科のゆり先生に話したら、

妹「すごいねー。それって、お姉ちゃんの現世への執着心って、
マンガだけってことだよね?変わってるよねー」

ゆり先生「死ぬことになったなら、死んでもいいけど・・・って
あっさり言うとこが、先生らしいよねー。
でも、目指す世界には、なかなかいけないってことね。残念だねー」

ですって。

で、私はこの夢で、なにを考えたかというと・・・。
「実は、アトラクションの中が、本当の死後の世界だったんだろうな。
「アトラクションの鍵をもらう」というのは、「生きている世界で必要なことを学び、
なおかつ肉体がボロボロになったので、死んでよろしい」
という神様の許可証のようなものかもしれない。

「許可証のような鍵を手にすれば、あの世に行ける」ということを知ったけれど、
通常ルート(アトラクションに入る)で、「あの世」にいけなかったので、
別ルートから「あの世」の入り口にいってみたものの、
まだやることが残っているから、戻るようにいわれた・・・って感じかなー。


「死んだつもりで、執着心をなくして、身ぎれいにしたいものだ」と、
最近思ってたけど、どうしても、執着心って、残るものなのね。
しかし、私の唯一の執着心は、マンガとはねぇ・・・」




マッチョな心

よく、取材などで、
「先生が独身なのは、男性に対する理想が高いからですか?」
と聞かれる。高いって、いえば、高いに入るのかもしれないけれど…。
好きで高いわけじゃない。商売柄、そうなってしまっただけだ。


たとえば、筋肉ムキムキに鍛え上げたマッチョな筋肉美を持つ女性が、
「この人って、たのもしい!頼りになるわ!この人には守ってもらえそう!」
と思えるような強い男性に出会える確率が低いのと、
いい勝負じゃないかと思うんだけど・・・。
マッチョで強ーい女性は、男性から頼りにされることはあっても、
なかなか、頼らせてもらえることは少ないもんだ。


カウンセリングなんて商売をやっていると、腕が上がれば、上がるほど、
自分の技術と、周りのちょっとした手助けを使えば、
たいがいの問題は解決できるようになる。
そんな私が、「人の助けがどうしてもほしい」と思う時というのは、
自分の持てる技術の粋をつくしても、どうにもならないくらい
すさまじい問題を抱えている時なわけだ。
そうなると、専門家が専門技術をもってしても対処できない重大な事態というわけで、
誰も対処できないことがほとんど・・・。


こんな時に下手に人に頼ると、敏感な相手だと傷ついて潰れちゃうし、
鈍感な人だと理解してもらえない。そのため、結局、自分がさらに落ち込むことになる。

なので、私はこういうときには、天から「救いの言葉」がポンと降ってくるのを待つか、
相談しても絶対に潰れない人に「ただ、話だけを聞いてもらう」ようにしている。


ところが、私がすさまじく落ち込んでいる時には、たいがいの人は、
「ただ聞く」だけでもボロボロになってしまうことが多い。
今まで、ボロボロのずたずたになった私を受け止められた人は、たった二人。どっちも、女性。


やはり、女は強し?!


それでも、冗談半分に、
「あーあ、たまには私も、かわいーく、どっぷり、甘えてみたいもんだわー…。
どこかに、私を支えられるくらい強くて柔軟性があって、
感受性豊かな心を持った男性が転がってないかしら…」

といったら、うちの妹が一言。

「お姉ちゃんより、強い男性が、この世にいるわけないじゃん。
第一、うさぎのように、甘えているかと思ったら、メスらいおんの本性を現して、
相手を餌にして食べちゃいそうじゃん。
なんたって、お姉ちゃんは、うさぎの化けの皮をかぶったらいおんだもん」

ですって。失礼な・・・。でも、あたってるかも・・・。



  2002年11月18日
楽器とマリオネット

先日、ラジオで脚本家の倉本聰さんが、
「私の脚本は、私が書いているわけではないんです。
神様のような存在から力をもらって、書いているのです。
私は神さまが鳴らしやすいような楽器でいるだけです」

というような話をされたとか・・・。

その話を妹から聞いて、ちょっと感激した。

私も、本を書くときやカウンセリングをしている時などに、
「いい言葉」が出てくる時は、自分が言っているのではなく、「言葉が天から降ってくる」
と感じている。だから、倉本さんの話にはとても共感する。


私流に倉本さんの言葉を言い換えるとしたら、

「私は、神様が扱いやすい「声の出るマリオネット」でいたい」

自分を磨くということは、神様が、私をさらに上手に動かしてくれるように、
一本一本、マリオネットの糸を増やして、神さまに手渡すことのような気がする。
神様が望むように動けて、望むようにしゃべって、私の周りの人たちに
神様が伝えたいと思っているたくさんのことを伝えてあげられたら、とても嬉しい。

 
最近、ちょっといろいろなことがあって、
「いつまで、この糸を作り続けられるのかなあ。
人の人生なんて、一寸先は、わからないからなあ」と、思うことがあった。


でも、あれこれ考えても、人生、先のことはわからないから、
一日、一日、自分と、周りの人たちを大切にして、気持ちよく過ごしていきたいもんだ。




  2002年11月28日
最近、「not doing but being」という言葉について、よく考える。
これは、わかりやすくいうと、「なにもしない。
でも、ただそばにいる」という意味で、「看護の極意」だとされている。


「いい看護」というと、ついつい、「あれもこれも、いろいろやってあげられる」のが
立派な看護のように思われがちだ。でも、実は、

「手伝おうと思えば、いつでも、手助けできる。
でも、必要とされるまで、手を出さずに忍耐強く、見守り続ける」

という方が、ずっと高度な看護なのだ。
なぜなら、「なにもせず、じっと見守る」というのは、「何かをする」よりも、忍耐を必要だから。
いわば、これは自分との戦いでもある。


実は、「カウンセリングも、やっぱり同じかもー」と思う。

というのも、最近、相談を受けていても、私自身は
「ふんふん・・・なるほど・・・」と話を聞いているだけで、何もアドバイスをしないのに、
相談者が自分なりに「ハッ」と答えを見つけ出して、

「これって、もしかしたら、こうやって解決すればいいんですか?
やっぱり! だったら、もう大丈夫です!」
と、勝手に元気になって帰っていかれる人が急増しているからだ。

昔、なにかの本で、

「いろいろな技術を習得すればするほど、持っている技術を使わなくても、
人を癒すことができるようになる」

と読んだことがあるけれど、あながち、嘘ではないのかもしれない・・・
と思う今日この頃。でも、じっと見守るのって、ほんとに、忍耐がいるから、大変・・・。


ところで、もしかすると、この「not doing but being」というのは、
いろいろな分野に通用する極意なんじゃないかと、思いはじめた。


というのも、先日見た、師匠の「花筐」の舞台の中盤あたりで、
師匠はただじっと舞台に立っているだけなのに、
それまでとは、がらっと舞台全体の空気が見事に変わった瞬間があったからだ。

たぶん、素人がああいう場面を演じても、ただ立っているだけにしか見えないだろう。
でも、たくさんの技術と経験を備えたプロが演じると、
「ただ、立っているだけ」でも、空気や場面まで変わってしまうように見えるものだ。
(ちなみに、こういう「空気が変わる」という瞬間は、
ビデオや映画では味わえない「生」ならではの醍醐味。
お能は、絶対、「生」で見るに限りますよー)


これは、看護にたとえて言えば、同じようにボーっとテレビを見ながら、
病人の付き添いをしていても、看護婦さんと素人では、歴然とした違いがでてくるのと
同じじゃないかなあと思う。素人は、病人が「ゴホッ」と湿った咳をしたら、

「ど、どうしよう。背中をなでようかな?それとも、薬?水?」
と、右往左往するが、看護婦さんなら、迷わずパッとティシュを差し出せる。

プロの「じっとしている動き」は、高速で回転しているコマと同じだ。
見た目には、じっとして全く動いてないように見えるけれど、
高速で回転しているコマは、いつでも、動き出せるだけのエネルギーで満ち溢れている。
台におかれていて、本当に動いていないコマとは、同じように見えても、全然別物なのだ。


師匠の舞台から感じられたような「動けるけれど、
でも、あえて動かない」という美しさが、いつか表現できるようになったらいいなあ・・・
と思いつつも、それはあくまでも、「目標」にして、まずは実行するのは
「仕事」の分野だけにとどめておこう。


「できないから、やらない」のと、
「できるけれど、やらない」のでは、大きな開きがあるもんね。
「できない」うちは、やっぱり、失敗と成功を繰り返して、
ますは、技術と経験を積み重ねることの方が、先決よねー。





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